東京の台所

<18>玄関わきに、山男のコックピット厨房

〈住人プロフィール〉
 ショップスタッフ(男性)、36歳
 賃貸コーポラス・1K・西武新宿線、沼袋駅(中野区)
 入居1年・築年数35年

    ◇

 中学1年のとき、家族と初めて登った富士山に感動。高校は山岳部、大学はワンダーフォーゲル部に所属。現在は、クライミング(岩登り)や山岳スキーの道具を扱う店に勤めている。

 趣味を仕事にしてしまったこの住人の家は、料理道具が充実していた。まるでコックピットのように、狭いが必要なものは全部ある。そして、ロフトは山登りの道具で埋め尽くされ、玄関脇には、ボルダリングマットとよばれる岩の下に敷く携帯マットレスが置かれている。

「まず山の道具をしまえる収納が豊富なことが、部屋探しの条件でした。ここは古い普通のアパートなんですが、ちょっとしたすき間やゆとりがあるんですよね」

 料理は毎日する。最初は節約のためにやっていたが、すぐに習慣になった。

「僕、基本、大盛りなんです。自分で作れば好きなだけ食べられるでしょう? 山でも作りますよ。難しい山の時は食事どころではないのでフリーズドライのものを食べます。でも、楽しむ岩登りやキャンプのときは、BBQをやったり煮炊きをします。月2~3回は登っていますね」

 不意に頼んで見せてもらった冷蔵庫には、手作りのヨーグルトと塩麹が、冷凍庫には昨日の朝焼いたというきつね色のホットケーキがラップに包まれて入っていた。

 山男や料理好き男子の通過儀礼のごとく、一時期はカレー作りにはまったそうだ。

「上野の専門店でスパイスを大量に買ってきて、毎日3カ月くらい作り続けたんです。でもあるとき、ふっと匂いとかに飽きちゃって(笑)。それからはあんまり作ってないなあ」

 友達と家飲みすることも多い。ひとりのときの食卓はパソコン机だが、人が来るとキャンプ用の折りたたみテーブルと椅子を出す。そのため、ふだんは部屋が広々としている。

「友達は山の仲間ばっかり。街の友達とはやっぱり違う。岩登りは命を預け合うので、本当に信頼できる人としか行きません。そうやって一緒に登った仲間は、何年会っていなくても“最近どこ登った?”とついこの間会ったように話すことができます。僕は本当は引っ込み思案なのですが、山に行くと素直になれるんです。命がけなので本気で喧嘩(けんか)するし、我慢しない。素になれる気がします」

 じつは大学の文学部を卒業後、一度ハウスメーカーに就職している。その後、建築に興味を持ち、大学の建築科に入り直して大学院まで修了した。しかし、建築の才能はないと気づき、縁あって長年の趣味の道に進んだ。サラリーマン時代の友達に会うと、「お前はいいなあ、ストレスがなさそうで」と言われるらしい。「じゃあ、お前も会社を辞めろよ」と冗談交じりに返す。

 趣味を仕事にするまでの遠回りの時間、それと引き換えに失ったサラリーなどを、きっと彼は惜しんではいまい。

 コンパクトだが、好きな道具に囲まれた使い勝手の良さそうな台所を見ると、ただの料理好きではなく、山が好きだから自然に料理も好きになったのだとわかる。そういう意味で彼以上に彼を語る、雄弁な台所である。

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PROFILE

大平一枝

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。
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