東京の台所

<21>23年前に買った料理本が満たす胃袋

〈住人プロフィール〉
 主婦(女性)・44歳
 持ち家・3LDK・井の頭線、池ノ上駅(世田谷区)・入居3年
 築3年・夫(獣医・47歳)、長女(13歳)、次女(8歳)、三女(4歳)の5人暮らし

    ◇

 4歳、8歳、13歳という3姉妹の母である。元々は獣医だが、現在は子育てに専念している。とはいえ、同業の夫が経営する病院の経理を担当し、姉妹の習い事の送迎だけでもほぼ毎日ある。

 それでも料理は手を抜かない。お菓子作りも大好きで、週に1、2度はクッキーやマドレーヌを焼く。栗の渋皮をとるところから作るモンブランなども月に何度か。菓子の教室にも通っている。彼女にとって、料理や菓子作りは、趣味というより暮らしそのものであるようだ。

「家族や周りの人が喜んでくれればそれでいいんです。ときどき『焼き菓子屋さんをやれば?』なんて冗談で言ってくれる友達もいるけれど、商売にしたら楽しみがなくなっちゃうから」

 知らない誰かより、顔の見える誰かを喜ばせたい。

 圧力鍋をつかいこなし、ロースターで焼き魚や焼き芋を作り、いそがしいときは早煮昆布で、夕食は鰹節を削って出汁(だし)をとるほどの料理好きだが、意外にも20歳で家を出るまで料理は1度もしたことがなかった、と言う。

「大学で1人暮らしをして初めてチャーハンを作ったら、まずいのなんのって。何を入れるかはだいたい想像でわかるんだけど、ことごとく分量がわからない。味の塩梅がわからない。ボーイフレンドには、とても出せませんでした。だって自分でも食べられないくらいまずいんだもの!」

 このままじゃ飢え死にする。というより、“料理が下手な女の子”ではシャレにならないと思った。そこで一年発起。料理本を買って勉強をしようと、大学近くの書店に飛び込んだ。

 買ったのは、辞書のように厚くて大判の 『料理の基礎全集』(婦人生活社)。和洋中なんでも載っているうえに、白黒ページに野菜の切り方や寒天の戻し方、豆腐の水切りの仕方まで、イラストで丁寧に解説してあるのがいいと思った。

「1冊2千円で、学生には勇気のいる金額でした。でも、1冊で料理の基礎が全部学べるなと思って、思いきって買いました。それから毎日作り続けて、あ、なんとか人並みになれてきたかも、と思えるようになったのが3カ月目くらいでした」

 そう言って、23年前に買ったという本をとりだした。料理本はたくさん持っているというが、最初の1冊目となるそれはキッチンカウンターの下の一番取り出しやすい場所にあった。どのページにも料理がはねたシミや読んだ痕跡が残っていて、どれほど長く彼女のバイブルであったかが伝わる。

「白和えはただ豆腐を崩して混ぜればいいと思っていたくらい。野菜は別に茹でて、豆腐は水切りをしてから崩すんですよね。人よりうまくとかいうんじゃなくて、ただただ人並みになりたいという一心で。でも、やりだしたら、あ、意外に面白いなと。今でもその面白いなという気持ちは続いています」

 20歳で娘を都会に出した田舎の母は娘の料理を見たことがない。だから、結婚した娘を東京の家に初めて訪ねたとき、娘の夫に思わず謝った。

「この子、料理が何にもできないでしょ、ごめんね」

 すると彼は驚きながら答えた。

「え? 料理、めっちゃうまいですよ」

 あのひと言は嬉しかったなあ。懐かしそうに彼女がつぶやく。身近な人が喜んでくれること。ここに、彼女の料理の原点はきっとある。

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PROFILE

大平一枝

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。
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