東京の台所

<24>台所に、そして彼にも「さよなら」を

〈住人プロフィール〉
 漫画家、小説家(女性)・54歳
 持ち家・4LDK・京王井の頭線、明大前駅(世田谷区)
 入居18年・築37年・夫(46歳・会社員)、長男(16歳)、長女(11歳)の4人暮らし

    ◇

 シンクの扉が外れたままになっていたり、茶の間の障子が破れたままになっているのにはわけがある。この家は来月、取り壊されるのだ。

 世田谷の閑静な住宅街に建つ60坪の庭付き一軒家を中古で買ったのは、独身の36歳のとき。当時、アシスタント5人を雇う売れっ子漫画家で、その前も一軒家を買ってローンを払い終えていた。月間300~500枚を描いていて、いよいよアシスタントが入りきらなくなってきたので、ぽんと今の家を買ってしまったという。玄関を開けると、ゴージャスならせん階段があり、1階のアトリエにはかつてアシスタントが使っていた机ずらりと並んでいる。

 キッチンはすべて特注の注文住宅で、家中のすべてのエアコンは格子の建具でカバーされている。ここで、家主の彼女が毎日、スタッフ全員分の昼ご飯を作っていたそうだ。

「最初はアシスタントに作ってもらっていたんだけど、若い子って料理も慣れていないし、とにかく遅い。一生懸命作るんだけど、できたものがおいしくなかったりして。だったら仕事をまかせて、私がちゃっちゃっと作ったほうが効率がいいって思ってね。料理は大好きだから、全然苦じゃなかったです」

 自分ひとりならパンをかじるだけの生活でもOKだが、「おいしい」と言って食べてくれる人がいると、がぜん張りきりたくなるタイプとのこと。

 その後、8歳年下の彼と結婚。2人の子に恵まれた。

 ますます料理好きに拍車がかかり、毎年、梅干しを20キロ漬け、ごはんを羽釜で炊く生活に。朝ご飯は甘い卵焼きに味噌汁、漬け物を欠かさない。睡眠時間が5分でも、きっちり1日3回、台所に立った。

「毎日のことだから」と彼女は言う。自分が倒れたら連載に穴が空く。体調管理も仕事のうちという責任と、毎日のことだからおいしいものを食べたいという欲と、おいしいと言ってくれる誰かがいる喜びがそうさせたにちがいない。彼は梅干しが大好きで、毎朝必ずつまんだ。

 だが、最近は吊り戸棚の扉や作り付けのエアコンが壊れたり、家の不具合が目立ち始めている。

「台所のシンクだけでも替えようと工務店を呼んだら“奥さん、なにもかもが特注で、修理代はかかるし、合う部品もない。直すより建て直したほうが早いかもよ”と言われたんです。自分も今は漫画の仕事が減って小説の方にシフトしているし、もうアシスタントが5人も通ってくることもないし。思いきってこの夏、建て替えることにしました」

 じつは、この機会に、すれ違い始めた夫との生活にも終止符を打つことにしたという。今は一緒に暮らしているが、もうすぐ夫は出て行く。新しい家も建つし、わくわくしてるんだけどね、と明るく言いながら、梅干しの樽を撮影したとき、ひとりごとのようにぽつんとつぶやいた言葉が忘れられない。

「もう、食べてくれる人もいなくなるから、今年は梅干し、結婚して初めて漬けなかったんだよね……」

 離別の話は聞いていたので、取材は、新しい家ができたときにしましょうか、と事前に打診していた。だが、彼女はメールにこう書き添えてきた。

〈台所の取材の件、汚い台所だけど、私の結婚生活の全ての年月の食べ物を作るのを引き受けてくれた台所です。もしよろしければ、取材してください〉

 パン、チョコレートケーキ、うどん、餃子、シュウマイ、ハンバーグ、酢豚に肉団子。ひと通りのものは全部作ってきた。家でキャンプ気分を味わいたくてダッチオーブンで料理をしたり、庭に燻製(くんせい)器を持ち出して、ベーコンや鶏肉や卵を燻製にして食べたこともある。

 泣いたり笑ったり、ケンカしたり。1人暮らしからアシスタント5人を食べさせ、次に2人になって、4人になって……。彼女の18年間に寄り添ってきた大好きな場所を、記録に残しておきたいという気持ちが伝わってきた。その時間に嘘はないし、抱えきれないほどのたくさんの喜びをもらった。だから今、彼女はこんなにも淋しくてつらそうなんだろう。

 新しく家が建ったらさ、彼がまた帰ってきたりなんかしてね。そんなことされても彼の部屋も設計に入れてないし困っちゃうんだけどね。冗談めかして最後に笑った。きっとそうなったら本当は困らないのではないか、と私は思った。

 たくさんの人たちの胃袋を支えてきた古い台所が、戦いすんで日が暮れたあとのようなたとえようもないものさみしさをまとって見えたのは、もうすぐ取り壊しになるからだけではない。

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PROFILE

大平一枝

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。
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<23>夫の婿入り道具とケーキのバイブル

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<25>家族の交差点のような場所

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