東京の台所

<32>築40年、四畳半の台所と顔見知りの医者

〈住人プロフィール〉
 会社員(女性)・31歳
 賃貸アパート・1DK・東急世田谷線 西太子堂駅(世田谷区)
 入居7年・築40年

    ◇

 築40年。上下に1戸ずつの小さなアパートだが、どうやらもとは4畳半ひと間の部屋が4戸あったらしい。台所の付いた部屋がやけに広いからだ。途中で2戸の壁を抜いて、1DKにつなげたようだ、と住人は推測している。

「古い木造アパートですが、どんなに新しくてきれいでも、よくある味気ないコーポはいやだったんです。ドアも壁も間取りもみんな同じで。誰が作ったかわからない工業製品のような家が苦手なんですね。ここは、玄関ドアの上に小さな明かり採りの窓があったりして、よく見ると面白いんですよね」

 さらに電気コンロ、一口コンロはもっと苦手だ。炎の見えるガス、それも2口は絶対欲しい。

 3カ月探し回った末の決め手は、流し台の前に大きな窓があること、ダイニングキッチンが4畳半以上あって広いこと、そして、近くには昔からの豆腐屋もあれば仕事帰りに立ち寄れる深夜営業のスーパーもあること。太子堂という町の利便性と雰囲気に惹かれた。

 こじんまりした町のサイズも好きだ。階下の住人はもちろん、隣近所の人たちはほとんどが顔見知りである。 

「オートロックはないけれど、そんなものよりご近所の人を知っているというほうが私にはずっと安心なんです」

 ある日の夕刻、携帯電話を見ながら歩いていた。すると、前方から「あら、こんばんは。お仕事の帰り?」と声をかける女性がいる。顔を上げると、近所のかかりつけ医だった。

「はい。先生は?」
「今、往診の帰り」
 と、笑った。ひとりで小さな病院をきりもりしているが、こんな時間に往診もやっていたのかと驚いた。
「調子はどう?」
「元気にやっています」
「よかった。顔色がいいわ。じゃあね」
 と言い残して、医者は立ち去った。

 福岡から上京。この街に住んでから7年になるが、自分の健康を心配してくれる人が近くにいるということが何より嬉しかったそうだ。

「往診なんてきっと儲(もう)からないのでしょうけれど、町の人のために続けているんだろうな、あの先生らしいなって思いました」

 もう引っ越すのが怖いんですよね、と住人は言う。こんな大きな窓のある風通しのいい台所には出会えなさそうだし、次の町にどんな人がいるかわからないからと。

 故郷を離れ、ひとり暮らしを9年やった私にも何となくわかる。自分の体調がいいときと悪いときの顔色を知っている医者がいる町に住む心地よさはきっと格別なんだろう。

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PROFILE

大平一枝

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。
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