東京の台所

<45>食欲はない。ただ、夜ごと酒を飲んで

〈住人プロフィール〉
 ミュージシャン(男性)・24歳
 賃貸マンション・ワンルーム・京王井の頭線 三鷹台駅(三鷹市)
 入居2年・築20年

    ◇

 1日1食。食欲がないので、食べたくなるギリギリまで待って食べるという。料理は一切しない。バイト先のコンビニでもらう弁当のおかげで食費はかからない。そのかわり、毎晩、ワインなら1本、ビールなら500ミリリットル缶を4本飲む。

「実家の青森の父も祖父も、すごく飲むんですよね。そういう環境で育ったので、飲むのが普通っていうか、飲まないと眠れないんです。酒が好きって言うより、眠れないから飲んでるようなものですね」

 大学を卒業して2年。「バカみたい」という名のバンドで、プロを目指している。だから就職はしていない。実家の両親と面と向かって話したことはないが「一度言いだしたらきかないという僕の性格を知っているので……」とのこと。きっとわかってくれていると思う。そんな彼の心の声がきこえた気がした。

 敏感肌で、水に負けて手や顔が荒れやすい。そんな息子を気遣う母から、毎年ケラチナミンクリームが送られてくる。ほとんどの化粧品は肌に合わないのだが、これだけは合う。「切らしたら困るものは何ですか」とたずねたら、そのクリームを大事そうにとりだして見せてくれた。台所の取材だから、本当はお気に入りの調味料や食料品を見せてほしかったのだが、いわば、彼にとってはそれが肌や心を潤わせる栄養のようなもの。私は黙ってシャッターを切った。

 酒豪なのに、自主アルバム発売記念ライブの打ち上げでも、ほとんど飲まなかったと大学の後輩から聞いた。だから飲まない人なのかと、後輩は思ったらしい。

 その話をすると、彼は一瞬、厳しい表情に変わった。

「お酒は飲むけれど、本当においしいと思うことは1年に1度あるかないか、です。それは本当にいい曲ができたときか、いいライブができたときだけ。あとの酒は全部、できない自分からの逃げ道みたいなものです。この間は、ライブに対して思うところがあって、全然酔えませんでした」

 夢などという耳当たりのいい言葉でくくれるほど、目指す道は簡単じゃない。部屋にはセブンイレブンでいちばん安いというアレグレメンテ・カベアルネソーヴィニヨンの空き瓶とビールの空き缶でいっぱいだった。空いた数だけ、ままならない思いをやりすごした夜がある。それほど真剣に向き合うものがあるからきっと、食欲なんて忘れてしまうのだろうと思った。

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PROFILE

大平一枝

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。
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