東京の台所

<60>過食症乗り越えて、お菓子の店を

〈住人プロフィール〉
 アルバイト(女性)・42歳
 賃貸・1LDK・小田急線 成城学園前駅(世田谷区)
 入居3年・築13年
 夫(会社員・43歳)とのふたり暮らし

“DON’T EAT”“EAT”“DRINK”などと1面ごとに書かれた小さなサイコロを、彼女は取りだした。
「過食症で悩んでいたとき、食べ過ぎないでね、食べたいときはこれを振ってと言って、友だちがくれたんです」
 拒食症の聞き間違いか、と自分の耳を疑った。目の前の彼女はスリムでスタイルがいい。
「もともと甘いものも辛いものも、とにかくお菓子が大好きなんです。だんなさんが出張で1年間ほとんどいなかったので、寂しかったのかもしれません。夜中にフロインドリーブのクッキーを1袋食べていて、朝起きて空いた袋を見て初めて、私食べたんだなって知るんです。食べた記憶が全くないという時点で、病気だと気づきました」
 大丈夫よ、太ってないよ、という友だちの言葉も重荷に感じられるほど過敏になっていた。
 その後、夫の仕事のリズムが変わり、徐々に症状も回復。さりげない気遣いが伝わる友だちからの小さなサイコロをほほ笑みながら人に見せられるくらいに、今は落ち着いている。
 母が料理上手で、小さな頃からおいしいご飯、手作りの焼き菓子やおやつを食べて育った。だが、自分は料理が苦手で、夫がいなければ作らないと言いきる。
「散らかるのがいやなんです。料理をすると汚れるでしょう? でも母はきれい好きで、料理も上手いのに散らからない。すごいなと思うけど、私にはできない。そのうえ、教わるのが嫌いなんです。だから母にも教わっていなくて、今も料理本やクックパッドを見ないとおいしく作れません」
 けっして作らないというわけではない。むしろ一生懸命トライするし、レシピ通りに作ればおいしくできあがる。だが、母のように何も見ずに毎回、百点の料理を作れないので、自分は苦手だと思っているのかもしれない。苦手意識は、料理上手な母を持ったがゆえの皮肉な悩みともいえる。
 そのかわり、食べることや、テーブルコーディネートやしつらいが大好きだ。料理が上手でない分、食まわりのアイテムでおいしく感じさせようと考えている。それは、台所を見ればすぐわかる。
 木工作家、三谷龍二さんのバターケース、洗練された静謐(せいひつ)な佇(たたず)まいが人気の陶芸家、内田鋼一さんの四角い皿、ツェツェのグラス、ル・クルーゼの白い片手鍋。フォルムが美しく、使うほどに味わいの増す、用の美を備えた台所道具が並び、ひとつとしてこだわりのないグッズがない。
 おいしいおやつを取り寄せたり、探し出して遠くまで買いに行ったりするのも好きだ。2年前、お茶とおやつの会を自宅で開いた。AからZまでの頭文字のつくお菓子を全国から集め、器や茶器をコーディネートして、5回に分けて会費制で開催した。食べる楽しみをみんなで分かち合いたい、という思いからだった。
 大好評で、次回はいつかと聞かれたが、彼女の目下の夢は違うところにある。だから、自宅の会はそれでおしまいにした。
「私にとって、お菓子は癒やし。残りの人生で、食べられる回数って決まっていますよね。だったらおいしいものを食べたいし、1人でも多くの人に紹介したい。だから、お店をやりたいんです」
 今はそのために、カフェと和紙を扱う店でアルバイトをしている。その前はパン屋で働いていた。自分では作れなくても、おいしいものを作る人を知っていれば店は開ける。
 おいしいもののせいで、料理が苦手になってしまったし、心身のバランスを崩しかけたこともある。だが、おいしいもののおかげで夢の種が胸の中で育った。
「42にもなって、子どももいないのにこんなんでいいのかなって思いますよね、ふつう」と彼女は笑う。
 甘いもののまわりにはどうしたって笑顔が集まる。そういう未来のたくさんの笑顔のために、今という時間を楽しむのは悪いことじゃない。夢に年齢制限はないし、食いしん坊の果てしない欲望から生まれた貴重な情報を店という形で社会に還元するのはむしろ、同じ食いしん坊としても大賛成なのである。

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PROFILE

大平一枝

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。
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<59>原点は、新婚時に招かれた上司の家の食卓

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<61>彼女が、彼女のために作る愛情ごはん

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