東京の台所

<62>ゆで卵とゆでアスパラ生活を脱して

〈住人プロフィール〉
 大学教員(女性)・38歳
 賃貸・1LDK・東京メトロ 千代田線 代々木上原駅(渋谷区)
 入居4年・築4年
 単身赴任の夫(大学教員・33歳)とのふたり家族

 大学院生時代、5歳年下の彼と知りあった。付き合うようになってわかったのは、彼は料理はゆで卵しかできないということ。

 やがて彼と学生結婚をした。彼女は研究のための出張が多い。とりあえず、旅立つ前にアスパラのゆで方だけ教えた。

 1カ月後に帰宅すると、晩ご飯にさんまとごぼうの梅煮が出てきて驚いた。彼は、料理本を読んで練習し、妻を驚かせたい一心でこしらえたのだった。その日の食卓を彼女は今も鮮明に覚えている。

 自らを、高学歴プアと自嘲(じちょう)する。博士課程と修士課程で学んでいるときに結婚したのでとにかくお金がない。家賃4万7千円のアパートをさらにねぎり、ヤフーオークションで買ったダイニングテーブルは勉強机兼用にした。その後、非常勤講師として働き出しても、2人の年収は100万円ちょっと。

「豚肉をちゅうちょなく買えるようになったのは、本当につい最近です」

 と、笑う。鶏の胸肉と卵と納豆がライフラインだった。

 4年前から互いに専任教員になり、経済的には1人前になったが、貧乏な院生時代の生活感覚は簡単には変えられないらしい。

 お金のなかった話が次々でてくるのに、少しも苦しそうに聞こえず、ふたりともなんだか楽しそうだ。

 妻はたいへんな食いしん坊で、昼ご飯を食べながら「ねえ、夜は何にする?」とよく夫に聞く。「今食べているところなんだから、次のことは考えないようにしようよ」と彼は諫(いさ)める。

 彼女は料理も好きで、梅干しも手作りしているほどだが、基本的にせっかちで、煮物のようにコトコト煮込んで待つ料理は苦手だ。だから、煮物はもっぱら夫の担当。そんな話を、ふたり口々に面白おかしく語る。

 食べることが暮らしの真ん中にあると、夫婦って仲良しなんだなあとぼんやり思った。そういえば、家に対して台所がやけに広い。この間取りもふたりに合っている。

 単身赴任で不安はないか尋(たず)ねると、このリズムにも慣れているし、週末に彼が帰ってくると家事などを本当によくやってくれるので、と笑った。

 もうすぐこの空間に小さな家族が加わる。その子は、パパが昔、ゆで卵しか作れない人だったなんて思わないのだろうなあ。助け合い、自然体で支え合う。すてきな両親だよとお腹の子に教えてあげたくなる。

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PROFILE

大平一枝

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。
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