東京の台所

<76>西荻窪の築30年 男と女が暮らし始めるとき

〈住人プロフィール〉
 会社員(男性)・27歳
 賃貸マンション・2DK・JR中央線 西荻窪駅(杉並区)
 入居半年・築30年
 恋人(会社員・26歳)と2人暮らし

「今、結婚資金を貯めているところです」と彼は照れくさそうに言った。一緒に暮らし始めて半年。西荻窪は、かつてこの近くの大学に通っていた彼女が「いつかは住んでみたい」と思っていた街だ。
 築30年の台所には、シンクの端に使っていないガス栓がある。なぜこんな場所にと首を傾げていると、彼は「たぶんガスの炊飯器を使っていた時代の名残ではないでしょうか」と教えてくれた。風呂の扉が閉まらなかったり、窓が壊れたり、最近では、蛇口をひねるとどういうわけかお湯が出るそうだが、ふたりはこの古い部屋をとても気に入っている。
「静かで安いんです。そのうえ西荻窪は散歩をするだけでも楽しい。だからなんの不満もありません」
 実は同じ会社に勤めている。7時半にふたりで家を出て、夜は22時頃帰る。節約のため、外食は控えている。彼女が作る夕ごはんを食べて、日付が変わる頃に就寝。そのかわり、土日はふたりでゆっくり食事をとる。初めて梅ジュースを作ったら、あまりの美味しさに感激した。これも週末の楽しみだ。
 ダイニングテーブルや小さな棚のあちこちに、一輪挿しがある。彼女はふたりで暮らすようになってから、草花を絶やさなくなった。
「大学進学のために仙台から上京して、ひとり暮らしをしていた頃はよくホームシックになりました。ふたりで暮らすまで、花を生けるなんていう習慣もありませんでした。今は私以外の人がいるから花を生けようと思う」
 皿も2枚ずつ買い、箸(はし)置きもちょこちょこと集めるようになった。
「そんなとき、誰かと暮らすっていいなって実感しますね」
 作家ものの焼き物が好きだが、器は高くて買えないので、箸置きを買う。彼女は愛おしそうにそのコレクションをテーブルに並べてくれた。
 大阪出身の27歳の彼と、仙台出身の26歳の彼女が東京で出会い、ひとつ屋根の下に住むようになった。この陽だまりのようなふんわりしたあたたかさや優しさを「幸せ」と一言でくくるのはひどく物足りないが、それしか思いつかないのだからしょうがない。
 ゆくゆくはこんなことをしたいんです、と彼は将来の夢を語る。傍らで聞く彼女の真摯な表情から、その夢を支えるための覚悟がうかがえた。
 彼の淹(い)れるコーヒーがいかに美味しいか。お母さんのお古のエプロンが彼女にどれだけ似合うか。ふたりが何も言わなくても、カメラのレンズの向こう側から、どうしようもなく幸せがこぼれ落ちてくる。

 ああ、一緒に暮らし始めた20代とは、なぜこんなにも眩(まぶ)しいのだろう。損得抜きに愛し合って、互いを支えあって、未来を信じあっている。そんな時が私にもあったはずなのだが……。
 いや、話がそれた。彼は言う。
「同じ会社でも部署は違うので、今日は何時に帰る?ご飯はどうする?って、やりとりします。悪く言えば、自由じゃなくなってる。でも誰かと住むってそういうことだし、それも悪くないなって思うんです」
 今日くらいは夫にもうちょっと優しくしてみようか、と私でさえ一瞬思ってしまうくらい、自然で仲睦まじいふたりであった。

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PROFILE

大平一枝

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。
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