東京の台所

<81>トーストとミルクティの変わらぬ朝食

〈住人プロフィール〉
 会社員(女性)・38歳
 戸建て・1LDK・西武新宿線 野方駅(中野区)
 入居8カ月・築1年未満・夫(33歳、公務員)との2人暮らし

 ブータン旅行で知り合ったという2人の朝食には、濃いめに入れた砂糖なしのミルクティが欠かせない。ブータンやインドの人々と同様に、夏でも熱いものを飲む。専用の茶葉は、蔵前や新大久保で調達する。
 ダージリン・ヒマラヤ鉄道に乗ってみたくて2人でインドを旅した時、ポットに入れたミルクティを出された。冷めないようにティコゼーで覆われていて、優雅で素敵だなと感激した。以来、自宅でも毎朝ミルクティを飲むようになった。
 インド、モロッコ、ネパール……。2人の口からは、旅したいろんな国の名が出る。都会の5つ星ホテルやゴージャスなリゾートには興味がないらしい。
「私達はふたりとも夜遅くまで働くような企業戦士ではないし、それほど疲労困憊はしてないんです(笑)。旅行は自然を求めて癒されに行く感じです。この秋はニュージーランドを予定しています」
 年に1回旅をすることが、なんとなく2人の決め事になっている。ただ毎回、これが最後かなと思いながら出かける。なぜなら、不妊治療を受けているからである。
「妊娠していたら、旅はできませんから。出発ぎりぎりまで見極めてから予約を取ります」
 旅に行けるのはうれしいが、本当は行けないほうがもっとうれしい。
 家にいると、どうしても不妊治療の話になる。何度か体外受精を試みたが、結果が出ない。悔いがないよう、がんばれるところまでがんばろうか。それともいっそ、子どもはあきらめようか。どちらとも決めきれない。
 そんな息が詰まるような日々に風穴を開けたのが家づくりだった。
「台東区の賃貸に暮らしていて、なんとなくいつかは家がほしい、くらいの思いで近所の物件を見ていました。予算を聞かれても答えられないくらいの冷やかし程度に。ところがあるとき、『土地だけ買って、あとからゆっくり家を建てれば?』と母から言われて、それもそうだな、と。土地を探し始めたら、どんどんのめり込んでいって」
 土地だけでなく、建築素材から家具まで、家づくりは決めることが山ほどある。夜な夜な、予算や間取りや住みたい町について2人で相談した。家のことを話している間は、不妊治療のことを忘れられた。
 それによってどれほど気持ちが紛れたか、そしてどれほど楽しい時間であったか。それは、台所の凝ったタイル1枚、おしゃれな照明の傘ひとつからも伝わってきた。
<そろそろ、子どもを持たない人生も受け入れなければいけないかなあと思い始めています>
 取材後、何度かメールのやりとりをするなかで、彼女はさらりとそう綴(つづ)っていた。今回も良い結果が得られず、ニュージーランドに行けることになったという。表情はわからない。だが、淡々として見えるその1行にどれほどの思いがこめられているかは想像がつく。
 もう少しがんばってみてはなどと、他人が軽々しく言えるものではない。私は、そうか、あの明るくて風通しのよいこだわりの台所にはもう小さい人が並んで立つことはないのかと思った。
 2週間後、またメールが届いた。
<転院して、もう少しがんばってみることにしました>
 取材を受けて、台所や家づくりや自分のこれまでのことについて話したら、心の整理がついて軽くなったのだという。
 夫ではない誰かに話すことで、少しでも荷物を軽くしたかったのかもしれない。彼女たちのようにふたりきりで悩み苦しんでいる夫婦がどれだけいることだろう。
 ラ・バケットで買った食パンをカリッと焼いたトーストと、アッサムティの茶葉でつくるミルクティという、いつものおいしい朝ごはんは、家族が増えても増えなくてもずっと続くだろう。この小さな幸せをどうかいつまでも大事にして欲しい、と私は願う。

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PROFILE

大平一枝

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。
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