トリコロールの台所(「東京の台所」番外編)

番外編<3>会社員からパティシエに 不惑の夢叶える

〈住人プロフィール〉
 パティシエ(日本人女性)・64歳
 分譲マンション・2LDK サン・ジェルマン・アン・レー市
 入居18年・築約50年
 夫(フランス人・56歳・シェフ)、長女(24歳)との3人暮らし

 かつて、日本の大きな酒造メーカーでワインや洋酒を使った菓子教室の運営などを担当していた。恵まれた環境で働きながらも、なんとなく先が見えているな、自分で何かやりたいな、と考えていた。人生の行き先を示す針が大きく振れ始めたのは38歳のころだった。
 子どもの頃から菓子作りが大好きで、社会人になってからは、働きながら著名な洋菓子教室に通っていた。その後、フランス料理研究家、川上のぶさんのもとでも教えを受けるようになる。
 川上のぶさんとは、戦後、50歳でフランスに渡り、ホテルなどで修行を積んだのちに帰国し、女性として初めてホテルオークラの厨房に立ったフランス料理研究家の草分け的存在である。
 その川上さんが東京の自宅で開いていた料理教室に10年通ううち、助手をまかされるまでになった。
「お菓子を教える人生もいいんじゃないか。あるいは小さなお店ができたらいいな、と。ぼんやりですが夢を描くようになったのです」
 あるとき、川上さんがフランスから有名シェフを招くイベントを手伝った。そこで、シェフの手伝いをするために来日したフランス人男性と出会った。8歳年下。それでも、弟子と助手という同じような立場ということもあって、心が通じ合うようになるのは自然な流れだった。
「今のようにメールもない時代です。『会社を辞めてフランスで洋菓子を学びたい』と、拙いフランス語で書いた手紙を送り、パリへ飛んだのです」
 シャルル・ド・ゴール空港まで迎えに来た彼は、そのまま自分のアパートに連れて行こうとした。
「え? そんなつもりじゃなかったんだけど、とびっくりしました。最初はホテルで暮らしながら、ゆっくり家を探すつもりでしたから」
 でも、行ったのでしょう? 彼の所へ。そう聞くと、彼女は小さく頷(うなず)いた。
「……ええ、まあ。ワンルームのアパートでした。パリ7区、ナポレオンが眠るアンヴァリッドの近くで、大好きなエッフェル塔がすぐ近くに見えるの。狭いけれど好きな部屋でした。そこに1年ほど暮らしてから結婚しました」
 40歳近くまで、結婚をすることはないだろうと思っていた女性の、わずか2年足らずの間に起きたドラマのような展開に、思わず私は身を乗り出す。
 もう昔のことだからと淡々と思い出を語る彼女の脇には、この取材のために彼が選んでおいてくれたというとっておきの赤ワインが。「サンテミリオン・グラン・クリュ」。グラン・クリュとは「特級畑」のこと。その道に明るくない私でも知っている高級品である。その葡萄色(えびいろ)のボトルから、結婚25年を経た、ふたりの穏やかな関係が想像できた。

 住人はいま、シェフの夫が経営するフレンチレストランで、パティシエとしてデザートを担当している。そう、〈いつか小さなお店を〉という会社員時代の夢を叶えたのである。しかも、店にはテーブルが10卓あり、決して小さくはない地元の人気店だ。

 5年前まで、自宅で料理教室を開いていた。大人2人がすれ違うことのできない細長のコンパクトなキッチンだが、そこから生まれる料理は見事だった、とかつての生徒は口を揃える。地方の伝統料理から正統派フルコースまで。料理教室の記録として分厚いレシピブックが残されている。
 日本に帰国すると必ず、百貨店で鳩サブレーを買い求める。
「娘が大好きで、買い忘れたら凄く怒られてしまったの」
 今やパリでバリバリ働いているという娘さんの好物は、サッポロ一番の塩ラーメンとバーモントカレー甘口。ほかに、こんにゃくとお揚げにも目がない。
「娘はフランス語も日本語もどっちつかずになってしまって、ちょっとかわいそうだったかな、と思います。幼い頃、日本語の授業が苦痛でたまらなかった、と大人になってから聞いたときは、胸が痛みました」
 一瞬、彼女は悲しそうな顔をした。だが、ちゃんと日本の良さや魅力は伝わっている。こんにゃくとお揚げと鳩サブレーが好きなフランス人なんて、なかなかいないだろう。
 もう少しこの人のことを知りたくなって、後日、レストランに出かけた。きりっとしたパンツスーツで颯爽(さっそう)と客を案内していた。サンジェルマン・アン・レーがオフとすれば、これはオンの姿である。「かっこいい」。同行の知人がつぶやく。
 店の奥、厨房で立ちはたらく彼女の夫の姿が見えた。もの静かでみるからに職人肌のやさしそうな笑顔。自分の人生に真剣に向きあい、葛藤したからこそ今があり、この家族があるのだろう。もう、いろいろ聞かなくてもいいな。そう思い、私は目の前の本格フレンチを堪能しようと、ナイフとフォークを手に取った。

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PROFILE

大平一枝

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。
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