東京の台所

<87>レスリー・チャンが教えてくれた味

〈住人プロフィール〉
 イラストレーター(女性)・54歳
 分譲マンション・3LDK・西武新宿線 久米川駅(東村山市)
 入居22年・築29年
 夫(52歳・教員)、長男(24歳)、次男(19歳)の4人暮らし

「こんな東洋的美しさをたたえたチャーミングな俳優がいたなんて!」
 たまたま見た映画『さらば、わが愛/覇王別姫』で主演していたレスリー・チャンに釘付けになった。前後して『君さえいれば/金枝玉葉』という映画を見て2度びっくり。
「繊細で美しい容貌(ようぼう)もさることながら、同じ人物かと目を疑うほど、作品によって変幻自在な演技力に心をわしづかみされたのです。まるでミラーボールみたい」
 以来、彼のことが頭を離れなくなり、彼の出身地である香港のことまで調べるようになった。香港の家庭料理にハマったのも、自然な流れである。
「だって好きな人がどんなものを食べてきたんだろうって気になるものでしょう? 私は昔からそうで、学生時代には信州出身の人を好きになって、おやきを作ったこともありました」
 もともと料理好きなこともあり、香港の家庭料理の奥深さに瞬く間に魅了された。
「魚介でも肉でも、とにかく食べ尽くすのです。魚の浮袋や、豚肉なら血まで料理にする。なんというか、生き生きしているんですよね」
 料理が生き生き?
「そう、葉物の炒め物ひとつも勢いがあるんです。新鮮な素材を使い切る、すべて食べ尽くすところがすごいなと」
 一時期は、週に4~5日は香港の家庭料理を作っていたという。食材調達のため横浜中華街はもちろん、香港にも足しげく通い、いつしかガイド本を出すほど詳しくなっていた。
 そんなお母さんを家族はどう思っているのだろう。
「それがありがたいことに、全員この料理が大好きなんです」
 そう言って、彼女は笑った。
 ベランダには、マイカイ露酒に漬けた豚肉がずらりと吊されている。ひとり立てばいっぱいの台所には、中華鍋や檜(ひのき)の丸いまな板、香港で買ってきたとっておきのXO醤やオイスターソースが所狭しと並んでいる。冷凍庫には手作りの大きな月餅(げっぺい)が。
 この風景が日常である彼女の家族が、干し肉が仕上がる日や手料理を楽しみにしないはずがない。
「なにより家庭料理が好きなんです。香港でも日本でも、おいしいものを作るときの主婦の目って真剣でしょ? 世界中のそれぞれの家庭で、家族の体や卓上の楽しみを支えてきた料理の知恵というのはものすごく豊か。私、身近な人のために一生懸命作る料理が好きなんですね」
 逆に、カフェ風、レストラン風をうたう料理は苦手だ。そう簡単にプロと同じものが作れるわけもなく、家庭で作るものとも立ち位置が異なると思うからだ。
「家庭料理というジャンルなら、家賃や従業員の給料も広告費もいりません。限られた予算を食材にめいっぱいつぎ込んで、自分や家族だけの好みや体調に合わせておいしいものが作れる。そういう意味では、外食に勝る面もありますよね」
 そんなことを話しながら、あっというまにアスパラ菜の炒め物と海老入りワンタン麺ができあがった。さあどうぞ、と卓上用の中華ターンテーブルにのせ、慣れた手つきでくるりと回す。
 少量の油でさっと茹でたという絶妙の歯ごたえの青菜、さらに、ぷりぷりの海老をけちらず目いっぱいつめこんだ大きなワンタンをほおばると、香港ソウルフードの勢いというやつが、理屈抜きに舌先から理解できる。
 レスリー・チャンに出会っていなかったら、この2品は彼女の手からはうまれていなかったかもしれない。没してなお海を越えて影響を与え続けるレスリーが偉大なのか、はたまた香港の食文化が偉大なのか、さて。

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PROFILE

大平一枝

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。
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