東京の台所

<102>母親たちや家族を癒すパンとお茶

〈住人プロフィール〉
 ピアノ講師、ピアニスト(女性)・40歳
 戸建て・4LDK
 JR中央線 国立駅(国立市)
 入居1年・築年数5年
 夫(弁護士・43歳)、長女(4歳)の3人暮らし
    ◇
 実家に住んでいた母がマンションに住みたいと言うので、娘家族が1年前、リフォームをして移り住んだ。
 娘である住人は、学生時代から22年間ピアノ講師をしている。2階をレッスン室にすることになり、内装やインテリアにもこだわった。とりわけ腐心したのは、「子どもをお稽古に連れてきた親御さんがゆっくりできるスペースをつくること」だと言う。

「それまでも、レッスンのあとに紅茶やコーヒーと、ちょっと自分で焼いたお菓子をお出ししていたのです。それが想像以上に、みなさんとっても喜んでくださって。こんなに喜んでもらえるなら、もっとゆったりできる場を作ろうって思ったんです」
 手製の菓子がおいしいからというのも、もちろんある。だが私にも経験があるからわかる。小さな子どもを30分や1時間のレッスンに連れて行くと、一人家に帰るわけにもいかず、教室で時間を潰すことになる。ただ待つだけの、なにもすることがない時間はひどく手持ちぶさただ。同時にそれは、家事も育児も忘れられる贅沢な時間でもある。そのぽっかり空いた狭間に、ゆったりくつろげたらどれだけ癒されることだろう。

「私も親になって初めて気づいたんです。お母さんたちはいつもバタバタ忙しい。もしかしたら子どもを私に預けているその間だけが唯一のリラックスタイムかもしれない。だったらうちが喫茶店になろう。できるだけほっとしていってもらおうって」

 というわけで、レッスン室の隣に深々と座れる居心地の良いソファとテーブルのある小さな待合室を作った。ガラス張りにしてレッスンの様子も見える。雑誌や観葉植物を置き、壁や床はシックなブラウンで統一。そこで丁寧に煎れたお茶を出す。ここで過ごすひとときはきっと、母親たちにとって至福だ。

 教室でいただきものをすると、御礼に自家製パンを贈る。パン作りが好きで、週2〜3回は焼く。最初は市販の天然酵母を使っていた。
「でも高いし、すぐ使い切ってしまいます。そこから試行錯誤して、ヨーグルトで自家製天然酵母を作るようになりました」

 小麦粉は1度に25キロ買う。ママ友達と会うときの手みやげにも持参する。

「酵母からおこしているのでお金もかからず、家族も差し上げた方も喜んでくれる。こんなに楽しめる趣味はないなあとしみじみ思います」

 自宅の一角でピアノ教室、というと、とかくマイペースな仕事ぶりを想像しがちだが、レッスン時間はほとんど夕方から。家族と食事を取るのもままならない。自分がいなくても夫や子どもが困らないように、週末には作り置きの料理を何品も作る。この日も、保存容器に入った根菜のトマトソースやひじきやサラダが、冷蔵庫から次々に出てきた。風邪をひいても代わりのいない職業なので、体調管理も大切だ。細切れの時間を縫い合わせるようにして、パンを焼き、安心な食材で家族の食事を作り置く。

 20年来通っている生徒さんもいて、教室はキャンセル待ちになることもあるそう。教える腕は拝見していないのでわからないが、生徒が途切れぬ理由がわかる気がする。誰もが居心地よく過ごせるようにと願う彼女の細やかな気遣いが、この家を丸く包んでいるからだ。

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PROFILE

大平一枝

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。
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