鎌倉から、ものがたり。

<29>由比ヶ浜の、特別な場所/マンナ

 鎌倉には隠れた名店が多い。イタリア料理の「Manna(マンナ)」もそのひとつだ。鎌倉から江ノ電で二駅の「由比ヶ浜」。こじんまりしたプラットフォームを降りて少し歩くと、住宅街の中に、実にさりげなく存在している。
 16席の店内はシックで居心地がよく、趣味のいい女友達の家に招かれたよう。カウンター越しにあるオープンキッチンで料理を作るオーナーシェフ、原優子さん(43)の敏捷(びんしょう)な動きが印象的だ。
 驚きのひと時は、A4コピー用紙に記されたメニューを見た瞬間から始まる。前菜25種、スープ5種、パスタ24種、魚料理15種、肉料理15種、ドルチェ26種……と、その数、100種類以上。
 たとえば前菜の「パテ」は、豚肉の中にピスタチオの緑が映える一品で、人参のサラダとキュウリのピクルスが付け合わせになっている。豪快ともいえるボリュームだが、それぞれの味わいは繊細に、かつ重層的に調和している。自家製のフォカッチャともよく合う。このひと皿だけで、マンナが特別な場所だということが、よくわかる。
「フランス料理は貴族のために付加価値を求めた料理。イタリア料理は家庭料理が基本ですから、細かく技巧を凝らすことを、私はよしとしていません。ただし、量に対するこだわりではないんです。料理には適切なフォルムがあります。味わいや、お皿の大きさなど、必要な要素を計算した上で、現時点での最良のフォルムをお出ししたいと思っているのです」
 札幌で生まれ育ち、東京の大学を卒業した原さんが料理の道に入ったのは、22歳の時だった。
「大学時代は体育会スキー部に所属していて、山ばっかり行っていました。ある時、山から下りてきたら、友人たちはみんな就活の最中。私もあせって企業を回ったのですが、OLとして働く自分がイメージできなくて」
 お好み焼き屋でホール担当のアルバイトをした時、自分は飲食店に向いている、という手ごたえを感じていた。卒業後はイタリア料理店、居酒屋、和食店とアルバイトを重ねた。10代のスタートが通常の料理界で、原さんは受けた教育もスタートも、通例とは違っている。その意識があったので、たとえ皿洗いばかりであっても、プロの技術を横から懸命に覚えた。
 1998年に東京・世田谷区で、やとわれシェフを務めた時から、原さんの独創性は周囲をうならせるものだった。その後、2000年に鎌倉を舞台に独立する。なぜ鎌倉を選んだのか。
「現実的な理由なんです。新聞で、『鎌倉の人口が増えている』という記事を読んだんですね。企業の保養所が、マンションに建て替わっている時期で、そういう場所だったら店が成立するのでは、と考えて」
 海と山のある鎌倉は、新鮮な魚と野菜に恵まれている。それ以上に、鎌倉には厚い客層があることも大きかった。店にはファンが付き、ファンは店を大事に思い、通い続けてくれた。 
「そのことには本当に感謝しているんです。私は、『この方はイカがお好き』『この方はお肉がお好き』と、お客さまが喜んだ料理は必ず覚えています。すると、次にいらした時も用意しておきたい、と思うじゃないですか。だから品数は自然に増えていった感じで……」
 100種類以上が記されたメニューは、原さんのプロとしての矜持と、店が刻んだ時間の証なのだ。

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PROFILE

  • 清野由美

    ジャーナリスト。1960年、東京都生まれ。東京女子大学卒。慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科修士課程修了。在学中、英ケンブリッジ大学客員研究員。英国留学、出版社勤務を経て、91年にフリー。先端を行く各界の人物インタビューとともに、時代の価値観や感覚、ライフスタイルの変化をとらえる記事を「AERA」「朝日新聞」「日経ビジネスオンライン」などに執筆。著書に『新・都市論 TOKYO』『新・ムラ論 TOKYO』(隈研吾と共著・集英社新書)、『ほんものの日本人』(日経BP社)、&w連載「葉山から、はじまる。」を1冊の本にまとめた『住む場所を選べば、生き方が変わる――葉山からはじまるシフトチェンジ』(講談社)など。

  • 猪俣博史(写真)

    1968年神奈川県横須賀市生まれ。慶応義塾大学商学部卒業。卒業後、カナダを拠点に世界各地を放浪。帰国後、レコード会社、広告制作会社勤務などを経て1999年にフリーに。鎌倉、葉山を拠点に、ライフスタイル系のほか、釣り系媒体なども手がけ、場の空気感をとらえた取材撮影を得意とする。本連載のほか、&travelで「太公望のわくわく 釣ってきました」の執筆と撮影を担当。神奈川県三浦半島の海辺に暮らす。

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