東京の台所

<111>2年間の旅の末にたどり着いた場所

〈住人プロフィール〉
旅する食堂、本屋・32歳(女性)
賃貸マンション・2DK・東急世田谷線 松原駅(世田谷区)
築年数45年・入居6か月・ひとり暮らし
    ◇
 編集者に向いていない。
 住人は職場で言われたその言葉を、すぐには受けとめきれず、もがいた。
「しばらくして会社をやめて、2年間旅に出ました。ずっと旅するわけではなくて、1カ月のうち2週間旅をして、2週間は朝晩バイトで働くというサイクルです。自分で決めたのは二つ。1カ月に一度旅に出ることと、ひとりで旅するということです」

 友だちと出かけると、背景やシチュエーションは違っても、結局日本の延長の出来事になってしまう。ひとりで行き、地図を広げ、わからないことは現地の人に聞きながら旅をすることに意味があると思った。
 トルコ、イタリア、フランス、イギリス、フィンランド。行く先々で、聞かれるのは日本の文化や宗教、政治や経済についてのことだった。
「答えられない自分が恥ずかしくて、帰国後はそれについて調べたり、現地の料理を再現したりしていました。海外だけでなく、沖縄はいちばんよく通いましたね。行くたびに大切なことを教えてくれるから」
 たとえば沖縄の焼き物“やちむん”は、土から器を作って焼いて、土から成るものを供し、最後は土に還す。自然の営みにさからわず、あらがわない大きな循環に心を動かされた。
「東京で知ったつもりになっていたようなことを、特別と思わず、毎日の生活の中で実践している。それがすごいなと」
 やがて彼女はあることに気づいた。
「旅で気づくことは全て自分の生活の中にあることだとわかったのです。家庭料理、夕日の美しさ、人間のちっぽけな存在と自然のおおらかさ。見ようとする気持ちや感じる力があれば、日本でも気がつけることばかりなんですね。同時に、たしかに自然はすごいけれど、人間のものを生み出す力もすばらしいと、自分の住む国の素晴らしさについても気づくことができました」
 穏やかな気持ちで旅する生活を終え、縁あって2年間、下北沢で大好きな本と、ごはんと、日用品を集めたお店を経営した。今は、ケータリングや出店をしながら、自宅でそのコンセプトを活かしたイベントを定期的に開く準備をしている。そのため、広々とした台所のある家に越した。すでに沖縄の焼き物と料理のイベントも開催し、今後の見通しと感触も得ている。窓から空が見え、さわやかな風が舞い込む明るい台所はたしかに開放的で、オフィシャルにも使えそうである。

「この台所に立つと、ふしぎと実家の北海道の母のことを思い出すんです。母が作った料理の匂いとか。あの時台所であんなことを言ってたなとか。先日、母が上京したので、私が子どもの頃から使っている漆器のお椀で汁ものを出したのです。こんなボロボロに禿げたの使っちゃって恥ずかしいよねって言いながら。そしたら母が“20年も使ってもらってこのお椀も嬉しいんじゃない? ものってそういうもんじゃない?”というのです。そのとき、自分の根っこがどこにつながっているか、わかった気がしました」
 母から子へ、台所を通して伝わったもの。旅先で気づいた確信。それらが、彼女の夢を形にする大きな原動力になっている。
 そういう人のぶれない強さが、この台所をさらに明るく照らしている。

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PROFILE

大平一枝

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。■レンズ協力:SIGMA ART|18-35mm F1.8 DC HSM、SIGMA 17-70mm F2.8-4 DC MACRO HSM/
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<110>心をつなぐ90分の食卓

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