料理家の台所(「東京の台所」番外編)

番外編 <1>朝ドラより波瀾万丈。人気料理家の情熱的半生 (上)

番外編 <1>朝ドラより波瀾万丈。人気料理家の情熱的半生 (上)

〈住人プロフィール〉
柳瀬久美子さん 料理家、フードコーディネーター・52歳
テラスハウス・2SLDK・目黒区
築40年・入居12年

台所は雄弁だ。ときに住み手の思想や哲学、半生までも垣間見えることがある。

人気料理家、柳瀬久美子さん、サルボ恭子さんの個性的な台所もまたいろんな秘密を教えてくれる。

ふたりの台所を訪ね、料理家になるまでの意外な歩みをじっくり伺った。

    ◇

「この家のポンコツ具合が気に入っているんです。なんだか懐が深いの」

開口一番、そういって柳瀬さんは笑った。

築40年。古いので断熱も十分でなく、冬は足元から冷える。コンセントも少ない。自宅で料理本の撮影やお菓子教室を開く身としては、電源が少ないのは痛いに違いない。だが、そんな不便もひっくるめて、この家の暮らしを愛おしんでいるのが、入居12年という歳月からもわかる。

料理番組のために試作したというリコッタチーズのアイスクリームケーキ「カッサータ」を切り分けながら、柳瀬さんは料理家になるまでの道のりをさばさばとした口調で語り始めた。

「高校2年の夏休み、アルバイト募集の張り紙を見て青山のパントリーで1カ月だけ働いたんです。お菓子は食べるのも作るのも大好きだったので。それが楽しくて楽しくて! お菓子作りのことをもっと知りたい、もっと長く働きたいって思ったの。お菓子を作れる職人さんがカッコ良く見えてね。自分もああなりたいなあってそのとき強く思いましたね」

職人たちが、どこそこの店の誰が店を持つらしい、あそこのお菓子がすごかったと話しているのを聞くと、バイト料を握りしめてすぐに買いに行った。東京の洋菓子の情報が、現場レベルでいち早く耳に入ってくる。そのたび高校生の柳瀬さんは、人の感想でなく、自分で食べて確かめたいと思った。

「3年になるとみんな進路のことを真剣に考え出すんだけど、私は菓子職人のことで頭がいっぱいで。池尻大橋に、青山の店の知り合いが新しい店を開くというんで、学校の帰りに寄ったのですが、そこのケーキが本当に宝石みたいにきれいだったんです。マドレーヌを買って食べたらものすごくおいしいくて。青山の店は昭和なケーキを作っていたけど、この店はフランス菓子を作っていました。ああ、私もこの“ホンモノ”のケーキが作れるようになりたい!って思いました。翌日、厨房に行って“お菓子屋さんになりたいんです”って直訴しました。気むずかしそうな店主に、厨房に女は入れない。女なんかに務まらないよと一蹴されましたけど」

柳瀬さんはひるまず、その後も毎日通い「入れてほしい」とたのんだ。まるで朝ドラのストーリーのようである。店主は最後に折れた。

「とにかく高校を卒業したら3年黙って働け。そうしたら職人にしてやる、と言われました」

初任給を鮮明に覚えている。70230円。自宅通いでなければ生活していけない金額だ。

「朝8時から22時まで働きづめでした。職人は全部で8人で、女は私ひとり。同期もいなくて一番下でした。職人達と飲みに行くと説教をされるか、師匠の悪口を聞かされるか(笑)。でも楽しかったですねえ。女の子で体を冷やしちゃかわいそうだからと、ケーキ作りのために冷房を効かせていた冬場は、暖かい窯場に回してくれたり、気を遣ってもらっていました。師匠はフランスとスイスで修行をした人で、シブーストひとつも、見たことのないような美しさでした。この素晴らしいケーキをタダで食べられて、技術も盗める。私なんか足手まといだったと思いますが、無我夢中で一番いい人の横で勉強できた。あの3年間は忘れられません」

約束の3年が過ぎた日、師匠に聞かれた。
「お前、これからどうするんだ?」
次の答えが、朝ドラのヒロインとはだいぶ異なる。
「アフター5のある仕事をしてみたいです」

時はバブル。高校の同級生たちはブランドのバッグを持ち、しっかりメイクをして、合コンやゴルフや海外旅行に出かけていた。毎日22時まで働き、定休日が平日の柳瀬さんは化粧をしたこともなかった。

「もうへとへとになっちゃって。それに本当にアフター5って言うのをやってみたかったんですよ、私」とあっけらかんと言う。

師匠はなんておっしゃいました?

「ぽっかーんと。開いた口がふさがらないって、ああいう状態をいうんじゃないでしょうかね」

柳瀬さんが売れっ子料理家になるまでには、もうひと波乱もふた波乱もある。なにせ柳瀬さんは、フランス語をひと言も話せないまま海を渡り、あちらの人と恋に落ちたはいいがその後大失恋をし、ボロボロの状態で帰国。生活のためにとりあえず始めた広告代理店のバイトで予想だにしていなかったあらたな人生の扉が開くのだから。

ポンコツの家をこよなく愛する一風変わった人気料理家の半生は、聞いているだけでハラハラドキドキ。

事実は小説より奇なりというわけで、次回に続くのである。

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PROFILE

大平一枝

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。
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