料理家の台所(「東京の台所」番外編)

番外編 <4>味覚の原点はにんじんの漬物

〈住人プロフィール〉
サルボ恭子さん 料理家、フードコーディネーター・44歳
マンション・1LDK・世田谷区
築16年・入居2年

フランス人の夫と二人の子どもがいる。長男は留学中。長女も春には大学生に。サルボ恭子さんは、仕事と子育ての両立が大変だった時期が一段落付くのを感じた。そんなとき、世田谷区の閑静な住宅街に、無垢のフローリングと明るい窓、そして大きな台所がついたマンションを見つけた。
「広くて家賃も高い。贅沢すぎる空間だと思いましたが、直感がはたらきました。仕事の拠点として借りるならここだ、そして今だ、と」
ふだんは石橋を叩いて渡る性格。だが、ここぞというとき大胆な行動をとることがあるらしい。不動産屋に案内されてこの部屋を見たとき、ひと目で魅了された。料理教室やスタジオとして、そこで立ち働く自分がありありと想像できた。
「だめだったら、たためばいいやと腹をくくれたんです。たたんでもいいからやりたいと思わせる力が、この空間にあったんですね、きっと」
部屋の奥までさしこむ陽射しがゆらゆらと、のどかで気持ちがいい。子育てを中心に据えながらこなしてきた料理家としての人生を、仕事中心に少々ギアチェンジ。バージョンアップさせ、新たな日々を始めるのに申し分のない舞台だ。
こうして、サルボさんの新たな仕事場は2年前にオープンした。

料理教室、料理本、出張料理やケータリングが主な仕事である。「ストウブ」の鍋で作る料理や著書『作りおきオードブル』『おかずは3品でOK!サルボさんの家の毎日弁当』のように、手軽でほっとする家庭料理が、忙しくても食事をきちんとしたい女性たちの多くに、支持されている。
実家はかつて日光で5代続く老舗旅館をしていた。母方の叔母も料理家である。その環境から、今の職業も必然のように考えがちだが、料理の道を志すようになった原点は別のところにあるという。

「母方の祖母がとても料理上手な人でした。私も祖母の料理が大好きで。専業主婦でお料理は独学。特別に凝ったすごいものではありませんが、何を食べても美味しかった。祖父は国会で、政治新聞を作っていて、毎晩人の出入りが多い家でしたが、祖父は妻の料理が自慢だったそうです」
うなぎをおろしたり、お寿司を握ったり、独学とはいえ料理は玄人はだしだった。和食だけでなく、シチュー、ミートローフ、エビフライなど洋食もこなした。サルボさんが遊びに行くたび、とりわけ心をつかまれたのは、切り方だ。
「なんてきれいに切るんだろうと思いましたね。和食から洋食まで、私にとって祖母は“なんでもつくるスゴい人”。私が15歳の頃亡くなりましたが、いつも楽しそうに台所で料理している姿が思い浮かびます。そういえばのんびり座ったりゴロゴロしている姿を一度も見たことがありません。私が遊びに行って、朝起きるともう着物をキチンと着て、湯気の立つ台所で忙しく立ち働いていました」

庭で家庭菜園をしていた。あるとき、祖父がナスを収穫に行くと、ひとつのナスに袋がかかっている。外してみるとナスの周りに糠(ぬか)がついていた。
「なんで糠が付いてるんだ? ナスがダメになっちゃうじゃないか」
すると祖母はくすくすわらいながら、いたずらっ子のように舌を出して言った。
「これなら朝起きて、ナスをもいだらすぐ糠漬けが食べられるじゃない?」
夫婦のやり取りを見ていたサルボさんは「おちゃめな人だなあ」と、吹き出した。美味しいものを作る名人で、その場にいる誰もを楽しい気分にさせる一家の太陽。そんな存在だった。

だからといって、祖母から料理を教わった記憶はない。あるのはおいしい記憶だけだ。
私は彼女にあらかじめ「料理家になるきっかけとなった、あるいは思い出の料理を教えて下さい」と頼んでいた。その日、用意していたのは「にんじんの漬物」だ。フランスのホテル・ド・クリヨンの厨房で働き、帰国後もフランス料理に長けた料理家のアシスタントをこなしてきた経歴からは、予想外のメニューであった。これは祖母宅で食べたものだそうだ。
「たしか幼稚園か小学校低学年だったと思います。私はにんじんが苦手で。それを知っている祖母が、これなら食べられるようになるわよ、というんです。私は“そんなこと絶対ないわ”って言いながらひとくち食べたらもう、おいしくておいしくて! 見た目もハラリとしていて、全然硬そうじゃないんです。食べるとにんじん独特の臭みがなく、旨味を含んだ何度でも食べたくなる味。後にも先にも、祖母のあの漬物以上おいしいにんじんは食べたことがないですね」
あの旨味は何だったのか──。
おとなになっても考え続けた。ああでもないこうでもないと、幾度も試作した。だがどう作ってもあの柔らかさにならず、ゆがいてみたりもした。そうしながら、10年ぐらい前にはたと、気づいた。
「だし昆布だったんです。昆布の力でにんじんのえぐみをなくし、まろやかにしている。そしてあの絶妙の厚さの切り方で、ポリポリと歯ごたえは残しつつ後を引く味になっていたのです」
サルボさんは味の記憶を頼りに、スライスしたにんじんにだし昆布とゲランドの塩をまぶし、袋に入れ、一晩寝かした浅漬けを再現した。ひとくち食べると、なるほどにんじん臭さがなく、今まで食べたことのないやさしい味の漬物だった。確かに遠くでだしの風味がある。

「あのとき、舌先でだしの旨味に目覚めたのだと思います。これがだしだとは当時わかっていなかったのですが、感覚で素材の味を引き出すだしのすごさを知ったんですね」
もうひとつ。あれほど嫌いだったにんじんを好きにさせてしまう料理という名の魔法を知った。
ほんと、箸が止まらないですね、こんなシンプルで美味しい漬物を作るおばあさまはすごい方だったのですねと言うと、サルボさんは首を振った。
「いいえ、祖母の漬物はこんなもんじゃなかった。もっともっとおいしくて、きれいでした。私のなんてまだまだ。あの味に追いつけません」

にんじんの漬物から始まったサルボ恭子さんが料理家になるまでのお話は次回に続く。

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PROFILE

大平一枝

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。
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