このパンがすごい!

硬派に見えてほわほわ 実は奥が深いドイツパン/ヒンメル

ヒンメル(東京)

 これがドーナツだというのか。見かけはまるで宇宙から飛んできた小惑星。ドーナツというより、硬い岩石に見える。なんだこりゃ? と思うこちらが傲岸不遜(ごうがんふそん)だろう。彼は私たちよりずっと前、ドーナツのご先祖として数百年前からオランダあたりに存在している。

 なんか硬そうだな、といぶかしがりつつ嚙(か)みつく食べ手の予想を見事に裏切る。ほわほわしている。テコでも動かん! という頑固そうないで立ちとまったく裏腹ななよなよぶりで、ぷるるんとちぎれていく。油に焼かれた表面だけはぱりぱりしているけれど、中身はふにゃふにゃとして、しゅわしゅわとはかなげに溶ける。

 たよりないのは味も同じで、ドーナツなのに中身に甘さがない。それだけに、油を吸ってコクをパワーアップさせた外皮と、そこにふりかけられた砂糖と口の中でミキシングされることで、じゅわじゅわと全体が甘さの輝きに包まれることになる。その一部始終を体験することで、快楽の階段を一歩一歩上がり、レーズンの甘酸っぱさ、ラムの香りもブースターとなって、最後はレッドゾーンに突入する。

 南ドイツのご当地パンというべきクラプフェン。いろんなパン屋で買えるようになったのは、ヒンメルのシェフ金長暢之さんが日本に紹介したおかげだ。ドイツへ渡ったとき、デュッセルドルフのベッカライ・ヒンケルではじめて見て、直感した。「このドーナツを覚えて帰れば、店ができる」。金長さんはこの店で修業し、クラプフェンを会得した。

 皮のかりかりと中身のなよなよ。ありえないコントラストは日々たゆまぬ努力で作りだされる。

 「同じ時間揚げたからといって同じものができるわけではない。ここでこうしないといけないという工程のタイミングがいくつもあります。できが悪ければ店には出さない。20個いっぺんに揚げるんだけど、1個だめならぜんぶだめ。泣きながら捨てたことが何度もあります」

 ヒンメルはドイツのパン屋だが、ここにあるパンは人びとがドイツパンと聞いてイメージするものとは異なる。私たちが想像する以上に広くて深いドイツのパン文化から、日本人にとって楽しいもの、親しみ深いものが選ばれている。もうひとつの楽しい揚げパン、それはベルリナー。ドイツでは特にお祭りのときに食べられる。揚げたパンの中に注射器でジャムを詰めたものだ。

 ヒンメルのベルリナーは生地がふわっとしてはかなく溶けていく。甘さと油がじゅるじゅると滲(にじ)みだす。それだけでも興奮を抑えきれないところへ、ホイップクリームが顔を出す。クリームと生地、ふわふわなものばかりで口がいっぱいになるこの幸福。ところが、ホイップクリームに甘さがない。そのために、どうしようもなく生地の甘さを求めるのだ。求め合う両者の運命的な出会い。生地の甘さと油、それからホイップクリームが混ざり合い、溶けあう無上の時。パンという愉楽のツボをヒンメルのパンは押さえている。

Himmel
東京都大田区北千束3-28-4 アンシャンテ大岡山 1F
03・6431・0970
7:30~19:30(火休)

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PROFILE

池田浩明

佐賀県出身。ライター、パンの研究所「パンラボ」主宰
日本中のパンを食べまくり、パンについて書きまくるブレッドギーク(パンおたく)。編著書に『パン欲』(世界文化社)、『サッカロマイセスセレビシエ』『パンの雑誌』『食パンをもっとおいしくする99の魔法』(ガイドワークス)、『人生で一度は食べたいサンドイッチ』(PHP研究所)など。国産小麦のおいしさを伝える「新麦コレクション」でも活動中。最新刊は『パンラボ&comics 漫画で巡るパンとテロワールな世界』(ガイドワークス)

http://panlabo.jugem.jp/

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