おいしいゲストハウス

<2>あらゆる境界線を越えて人が集える場所に ~Nui.(後編)

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>>前編から続く

 「旅をキーワードに会社を起こそう!」と熱い思いで集まった4人だったが、現実は仕事もなし、貯金もなし。さてどうしよう?と窮地に陥ったときに、助け舟を出してくれたのが、桐村琢也さん(31)の父だった。

 「うちのおやじは九州で焼き肉屋を10店舗ほど経営しているんですけど、当時ブームだった白いたい焼き屋のFC店舗経営もやっていたんです。福岡から始まり、関西には進出していましたが、東京はまだ。それでおやじが『お前ら4人でプラプラしてるんなら、東京でやれ』と言ってくれたんです。初期投資は出すから、売り上げの何パーセントかを入れればいいと」

 この提案に4人の意見は分かれた。「たい焼き屋をやるために会社を辞めたんじゃない!」「とりあえず就職して、1、2年後にまた集まった方がいいんじゃないか」「せっかく4人集まったんだから、一緒にたい焼き屋をやろう」「4人一緒に店をやったら、コケたときに共倒れしてしまう」……。何度も何度も話し合い、出した結論は、4人でたい焼き屋をすることだった。

「僕はせっかく4人集まったんだから、何をするにしても4人一緒がいいと思っていました。それに、何よりもおやじの商売の嗅覚(きゅうかく)を信じていました。おやじが大丈夫と言うんなら大丈夫だろうと」

 結果、桐村さんの父の読みは大当たりだった。出店したのは、八王子の街道沿い。まわりには何もないし、決してアクセスがいいとは言えない場所だった。しかし、2009年というタイミングもよかったのだろう。ちょうど東京では「食べたい!」という欲求が高まっていた。口コミによってうわさがうわさを呼び、オープン1カ月で1200万円を売り上げて、瞬く間に日本一に。一日中行列が途絶えない店になっていた。

国内70軒、海外21カ国のゲストハウスを泊まり歩く

 当時、4人は八王子の駅前のマンションで共同生活を送っていた。「1年で1000万をためる」という目標を掲げ、生活も切り詰めていた。自炊をして、お小遣いは一人月3万円。それ以外は全部貯金だ。仕事も一緒、寝食も一緒。仕事を終え家に帰ってからは、毎晩遅くまでミーティングだった。もちろんけんかも絶えなかったが、「見ている方向が同じだったので大丈夫だった」と、桐村さんは当時を振り返る。

 結局、この濃密な日々が今の会社の基礎になっている。「ゲストハウスをやろう」というアイデアが出てきたのはまさにこの時期だった。

 翌年2月、4人はゲストハウスを始めるべく、「株式会社Backpackers’Japan(バックパッカーズジャパン)」を立ち上げた。23~24歳の若者たちがビジネスをやるといっても世の中からは信用されない。そこで、まずは会社を作ることにしたのだ。

 次にとりかかったのは、ゲストハウスの調査だった。2010年、年が明けるとまず本間貴裕さんと石崎嵩人さんが東京から北と南に別れて「日本のゲストハウスを巡る旅」に出た。70軒ほど泊まり歩いて、日本のゲストハウスの現状を調べた。4月になると、今度は桐村さんと宮嶌智子さん、そしてもう一人の友人3人で「3カ月世界一周の旅」に出た。3カ月でアジアからヨーロッパ、南米、オーストラリアまで21カ国のゲストハウスをみてまわった。旅の資金はたい焼き屋でためたお金だった。

 3人が世界を巡っている間、日本残留組はすでに物件探しを始めていた。見つけたのは後にゲストハウス「toco.」になる入谷の古民家だった。床が抜けていたり、傾いていたりとそのまま使える状況ではなかったが、改装をお願いする大工も信頼のおける知人に頼めた。4人はスカイプでミーティングを重ね、旅行中にも着々と準備を進めていった。

 2010年の夏は、4人にとってこれまでで一番“アツい”夏だったろう。事業計画書の制作、銀行へのプレゼンテーション準備、ゲストハウスのリサーチ、物件探し、改装、ウェブサイト作り……ほぼすべてが同時進行だった。

「そもそもどんな宿にするかも決まってなかったんです。社会経験も積んでない若造で何も知らないし、すべてその場で話し合いながら決めるしかありませんでした。工程表なんてもちろんないし、よくできたなと思います。でも、人間やればなんとかなるんですね(笑)」

 そう桐村さんは振り返る。7月から9月は、全員が改装中の古民家に棟梁(とうりょう)と寝泊まりする毎日を過ごした。

「文化祭のように楽しいのは最初の数日だけ。あとはもう地獄でしたね。クーラーのない部屋で暑いし、お金の心配もあるし、事業についても不安だらけでした」

 課題もトラブルも山積みの日々だったが、泊まり込みで作業をしてくれる大工さんや手伝いに来てくれる友人たちの協力もあり、なんとか3カ月で改装が終わった。

人が入りやすく、風通しがよく、自由に動けるラウンジ

 そして2010年10月。toco.がオープン。もちろん最初は暇だったが、一人、二人とだんだんお客さんが増え、2、3カ月ほどで満室に。2011年の震災で海外からの旅行者が途絶えたこともあったが、日本人の若者を中心に少しずつ利用客は戻り、その後は今にいたるまで予約の取りづらい状況が続いている。

 1年も経つと、「2軒目をやろう」という話が出てきた。toco.で作ることができた、旅行者と近隣住民が和気あいあいと語り合う雰囲気を基盤に、今度はラウンジを大きくし、外の人も泊まる人もたくさんの人が集まれるようにしたい……。そんな思いで造ったのが、Nui.だった。

「バーに加えて料理もしっかりしたものを提供したかったから、飲食の経験者にお願いしてメニューを開発してもらいました。人が入りやすい空間にしたかったので、友人のデザイナーや大工さん、職人さんと日々話し合い、設計も風通しのよいオープンな雰囲気が出るようにしています。自由に動ける空間にしたかったので、会計もキャッシュオンです」

 2015年には京都に3軒目のLenもオープン。どの宿も評判を呼び、国内外から多くのお客さんが訪れている。一緒に働くスタッフも、この6年で4人から60人に増えた。

理念達成を感じる日は「まだ、年に2、3日」

 Backpackers’ Japanは、「あらゆる境界線を越えて、人々が集える場所を。」という理念を掲げている。桐村さんに「理想の空間ができましたか?」と聞くと、「まだまだ」という答えが返ってきた。

「国籍、人種、年齢、職業、宗教……あらゆる境界線を越えて人々が集える場所を作るのが私たちの仕事です。けれど、本当の意味でその理念が達成されていると感じる日はまだ、年に2、3日しかないと思っています。多種多様な人々が集い、語り、笑っている場所を目の当たりにすると、鳥肌が立つこともあります。今以上に理念に向かって進み、かつ、経済的にも数字に落とし込めるようにしたい。試行錯誤の最中です」

 若者たち4人から始まった“理想の空間”を探す旅。これからもまだまだ続きそうだ。

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PROFILE

宇佐美里圭

1979年、東京都生まれ。東京外国語大学スペイン語学科卒。在学中、ペルー・クスコにて旅行会社勤務、バルセロナ・ポンペウファブラ大学写真専攻修了。ワールドミュージック誌、スペイン語通訳、女性誌、『週刊朝日』編集部を経て、『アサヒカメラ』編集部。料理研究家・行正り香さんの書籍を多数手がける。ラテン音楽、山、ワインが好き。

<1>好きな人たちと、好きなことを ~Nui.(前編)

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<3>31歳、とりあえずソニーを辞めた ~UNPLAN Kagurazaka(前編)

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