東京の台所

<124>28歳彼が41歳彼女に作る豚の角煮

〈住人プロフィール〉
俳優、アルバイト・28歳(男性)
戸建て・1LDK+婚約者の両親の2世帯住宅・大江戸線・落合長崎駅(新宿区)
築年数13年・入居半年・婚約者(シンガー、ボーカルトレーナー・41歳)とふたり暮らし
    ◇

この恋は、犯罪!?

「好きになっちゃったかもしれません」
 1時間のボーカルレッスンを終え、指導トレーナーの彼女と一緒に教室を出たとき、彼は言った。告白というより思わず口をついて出た、というのが正しい。

 彼女は、臨時で受け持った教え子の唐突な申し出に戸惑い、曖昧に笑って受け流した。だが、当時の気持ちを彼女はこう振り返る。

「たった1時間、たまたまピンチヒッターで受け持っただけ。ちょうどハモリの練習だったのですが、なんだかとても波長が合って気持ちよかった。今まで仕事場で誰かを好きになったことがないのですが、あの時内心“わたしも好き”と思っていました」

 彼は俳優の卵で28歳。彼女はイギリスの音楽大学を卒業後、ボーカルトレーナー、シンガーとして多忙な40歳。そこからメールのやりとりが始まり、3カ月後、初めて鎌倉でデートをした。

 帰り、藤沢駅で江ノ電から小田急線に乗り換えた。すると突然彼が言った。

「ほかにおつきあいしている人はいますか?」

「いえ。いません」

「じゃ、僕と付き合ってくれませんか」

 彼女はその夜、受け持ちのクラスがあったので仕事場に戻り、おそるおそる彼のファイルを開いた。
「年齢を見てびっくりしました。犯罪だわ、と思うくらい若かった。しっかりして落ち着いているので、もう少し上かと思っていました。これはハッキリ、私の年齢を彼に伝えなくてはと思いましたね。それでだめなら、この恋はあきらめよう。こんな素敵な人と出会えたことだけでもギフトのようなもの。私はそれで十分幸せだったと」

 たった一度のデートで二人は恋に墜ちていった。

 一方彼は、童顔の彼女を30代くらいだろうと思っていたという。お互いの幸福な勘違いが運命を変えた。
 三度目のデートで、彼の高円寺のアパートに招かれた。彼女は聞いた。

「これって付き合ってるってことになるんですよね」

「そうです」

「だったら言わなくちゃいけないことがあるの。私、40歳なんです」

 知らず知らずのうちに涙が溢れていた。

 彼は驚いたが、こう口を開いた。

「年を聞いたからって嫌いにはなれません」

 彼女がさらに号泣したのは言うまでもない。

 私から見てもチャーミングで、およそ40代には見えない。天真爛漫で少女のようなおもかげさえあるが、イギリスから帰国後は、音楽で生計を立てたい一心で恋愛をする余裕もなかったという。

「私は34歳の時、祖父のお金で3年間留学をさせてもらいました。共演したい人もいる。作りたい作品もある。どうしてもかなえたい夢があり、音楽で生活も成り立たせたい。そうすることが唯一、祖父への恩返しになると思うのです。だから毎日が必死で。自分は一生結婚しないんじゃないかと思っていました」

 まさかそんな自分が、20代の生徒と恋に墜ちるなんて。たぶん、音楽と結婚したような、一生懸命な彼女だからこそ惚れたのだ、彼は。

彼女の家で見つけた家族の形

 彼は、20歳の時に両親が離婚をしている。母、妹とは仲がいいが、父とはこの10年で2回しか会っていない。

「僕は結婚の成功例を見ていないので、結婚はしなくていいと思っていたのです。でも彼女の両親に紹介されると、あれよあれよというまに結婚話が進んでいって。さすがにちょっととまどいましたね。まだ結婚に対する現実感がなかったので」

 地方の国立大学を卒業後、俳優を目指し上京。高円寺のアパートで自炊しながら役者修業を続けていた。まじめで明るい。料理が上手で、人あたりのいい彼を両親はすぐに気に入ったらしい。
 彼は考えた。今後、同年代の子で彼女のような素敵な女性に会えるという保証はあるだろうか? 答はノーだ。「年齢なんて関係ない」。改めて強く思った。さらに彼の心を動かしたのは、彼女の両親の姿だ。

「僕もお義父さんも料理好きでよく一緒にスーパーに行くんです。お義母さんにはこれを買いましょうかというと、“ママはそれよりこっちの方がいい”と言う。あるいは、家でみんなでお酒を飲んでいるとき、なんとなくペースがあって、1杯目がビール、その後ハイボールになる。僕がまちがえてお酒をすすめると、“ママはもういいからね”とお義父さんが言う。お義父さんがお義母さんのことをなんでもわかっていて、いかに大事にしているかがよくわかる。いい夫婦だなあと思います」

 パパがあなたのことをこう言ってたわよ、と彼女の母から聞いたこともある。夫婦の間に隠しごとがないのだとわかった。

「僕の家は、小さな頃から隠しごとが夫婦の間にあって、子ども心にもそれがわかってた。もめると、どちらの味方になればいいかわからなかったりしました。風通しのいい夫婦だなあ、これが家族というものかと今、初めて学んでいます」

 そんな両親に大切に育てられたひとり娘の彼女に、彼が惹かれたのは自然な流れだったといえる。

 彼は学生時代から豚の角煮が得意で、友だちに振る舞っていた。今は、上階に住む彼女の両親のためによく作る。もちろん彼女も大好物だ。ちょうど昨夜作ったというので見せて下さいと言ったら、彼女の父がきれいに平らげて、大根と卵がほんの少ししか残っていなかった。さぞおいしかったのだろう。

 二人は今秋結婚する。俳優業の継続は30歳をめどにしている。目下、音楽の仕事で多忙な彼女のビジネスのサポートをしようと夢をあたためているそうだ。

 年齢や肩書や職業や育った環境で、男女は幸せになるのではない。新婚夫婦なんてみんな危なっかしいし、こころもとないし、でも愛だけはたっぷりあってどうにかこうにか、時間をかけて夫婦という形に整っていく。その点、彼らには、素敵な夫婦の見本がそばにいる。これは心強い。

 聞きたいことは十分聞けて、久しぶりに取材を早めに切り上げた。こういうのを“あてられた”というのかな。

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PROFILE

大平一枝

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。■レンズ協力:SIGMA ART|18-35mm F1.8 DC HSM、SIGMA 17-70mm F2.8-4 DC MACRO HSM/
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