MUSIC TALK

デビュー40周年、築いた“大きな山”をアルバムに 矢野顕子(後編)

ジャズ、テクノ、ポップス――。ジャンルという境界線を超え自由奔放に遊び、それでいて緻密で繊細な音楽で聴く者を魅せ続けてきた。今年、デビュー40周年を迎える矢野顕子さんが語る、「春咲小紅」、ニューヨーク、そしてこれから。(文・中津海麻子)

前編から続く

「YMOは私にとって新しい体験だった」

――1978年に結成したイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)に、サポートメンバーとして参加しました。

YMOは、当時の私にとっては「細野さんの新しいバンド」で、そのバンドをお手伝いしたという感じでした。細野さんとは本当に長い付き合いで、いまだに「この間まで17歳だったじゃない?」なんて言われるんだけど(笑)。

それまでの私は、自分の中から湧き出てくる音やリズムをそのままアウトプットして、聴く方々に楽しんでもらっていた。でも、YMOの音楽は決められたリズムがあって、それをきちんと弾く。さらに、ピアノじゃなくてシンセサイザーだったので、弾き方も違う。訓練が必要だったけれど、等しいリズム、きちんとしたリズムにのっとって自分を表現するのは、新しい体験だった。YMOという音楽のフォーム中の「一つの部分」を受け持つことも、私にはとても新鮮でした。

――YMOはまず海外で大ブレークし、日本でも人気バンドという域を超える社会現象に。その熱狂の渦中にいて、YMOはどんなバンドだと感じていましたか?

YMOは世界最高のダンスバンドだった。インタビューなどで聞かれるたびにそう答えてきましたが、その思いは今も変わりません。音楽自体はテクノだったから「機械的」と言われ、確かに音は機械から出されたものだけれど、彼らはそれまでになかった新しいリズムを作ったんです。そして、ライブがものすごくかっこよかった。何より3人ともとてもうまかった。演奏の技術が飛び抜けて優れていました。あのころ、YMOのようなバンドは世界中どこを探してもなかったと思いますね。

「春咲小紅」が大ヒット

――81年、化粧品のCMソングに起用された「春咲小紅」が大ヒットしました。

ヒット曲を出すこと、お金を得ること、広く自分の名前が知られるようになること。どれも興味がなく、まったく望んでいないことだったので、正直複雑な気持ちでした。でも半面、自分の曲がお茶の間にも流れて、たくさんの人に知ってもらえる喜びも感じていました。

1曲ヒットすると、似たような感じの曲や、「春咲小紅」が好きという人たちに受ける、わかりやすい曲を作るのが普通です。でも私はその後、小学1年の子どもの詞に曲をつけたりと、「春咲小紅」で得た新しいファンにはまったく親切じゃないアルバムを作った。そういうところは、さすが私! って思います(笑)。

――前年に美雨さん(ミュージシャンの坂本美雨さん)が生まれ、ワーキングママだったのですね。子育てをしながらの音楽活動は大変だったのでは?

もちろん、小さい子どもを抱えて仕事をするのは大変でした。長男のときもそうだったけど、あちこち連れて歩いて、そのへんにいる人に「ちょっと見てて」って(笑)。スタッフに友だちにベビーシッターさんに、周りを巻き込んで乗り切っていったように思います。とはいえ、実はほとんど覚えてないんだけどね(笑)。

NYに移住したからこそ生み出せた音楽

――90年には一家でニューヨークに移住されます。

当時の夫(坂本龍一さん)の海外での仕事が多くなり、東京と行ったり来たりが大変だったので、じゃあ引っ越す? みたいな軽いノリでした。ただ、子どもたちをまったく違う文化の中で育てたいという気持ちが強かった。自分の常識が通用しない世界、それが基本なんだっていうことを教えたかったんです。そういう意味で、移住はとてもいいきっかけでした。

――ミュージシャンとしてニューヨークでも活動を続けました。ニューヨークはどんな街でしたか? 環境が変わったことで自らの音楽や創作活動に変化は?

ニューヨークは本当に特殊な場所で、世界中から自分の音楽を作りたい、聴いてほしいという人たちが集まってくる。当然競争は激しく、だからこそ本気でものづくりをしたい人にとっては最高の環境だと思います。

音楽は根本的には変わらないですね。ただ、あのまま日本に住み続けていたらできなかった音楽を生み出せるようになった。それは間違いありません。日本にいればもっと仕事がしやすいし、もっと収入も得られるし、スタッフだってもっともっと楽にできることがたくさんあったでしょう。でも、新しい曲を作りたいという欲求や、作られねばならないという衝動が続いたかは、甚だ疑問です。

それまで自分が培ってきた常識が通用しない世界で、今から考えると本当に貧しい英語で、よく暮らしていたなぁと思うんだけど、そういう中でこそ「自分は何者であるか」を深く考える。そういう状況から生まれる音楽は、日本にいたらできなかったと思います。

――以来、ニューヨークに拠点を置きながら、日本での音楽活動を続けてきました。矢野さんにとって、アメリカと日本、それぞれどんな場所ですか?

この前ね、ジャズピアニストの上原ひろみちゃんと話してたんだけど、成田空港に着いてゲートを抜けたあたりに「おかえりなさい」って書いてある。あれを見てどう思う?って。彼女は「帰ってきた」って思うんですって。でも、私は思わない。私にとっては「日本に行って、アメリカに帰る」。それは、ニューヨークが長い間家族と暮らした場所だから。友だちがいて、生活の基盤がすべてあるから。今は猫1匹しかいないんだけど、それでもそこが家であり、ホームなんです。

――マンハッタンで暮らしていた2001年9月11日、アメリカ同時多発テロに遭遇しました。創作活動への影響はありましたか?

ワールドトレードセンターから950メートルの距離にいました。とはいえ、私が失ったのは自宅から見える景色だけ。何も失っていない。それでも計り知れないほどの衝撃を受け、人種や宗教の問題などアメリカが抱える様々なことを目の当たりにしました。そうした中、普段はクールで自我が強いニューヨークの人たちがみんな助け合い、支え合っていた。あの光景、雰囲気は初めて経験するものだった。

そして、書く歌詞が変わりました。どんなに目の前に絶望的な状況があったとしても、決してそれに甘んじてはいけない、希望を持って生きていくことが人間にとってどれだけ大事なことか――。そういう思いを詞に込めるようになったのです。あのあと日本では東日本大震災が起きましたが、おそらく日本の人が3.11で受けた衝撃と喪失感、そして再生する力を、私は9.11のNYで感じたのだと思います。

音楽って、おいしい料理を作るのと似ている

――ジャンルや年代を超え、様々なアーティストと積極的にコラボレーションしています。共作するモチベーションは?

たとえば、この食材と食材を組み合わせたら思ってもみなかったおいしいお料理ができた。そんなとき、作る側も味わう側もとてもうれしくて、満足感がありますよね? それと同じで、私の中から出てくるものと相手の方から出てくるもの、それが合わさって新しい何かが生まれたときの喜びが、コラボレーションすることの楽しみです。私はどなたともできるので苦労を感じたことはないけれど、でも、培ってきたものが違う人とは共通の言語を見つけなければいけない。そのための時間と労力は惜しみません。

――お料理のたとえ、とてもわかりやすいし楽しいですね!

でしょ?(笑) 似てるわよね、料理と音楽って。どちらもありふれたものだけど、本当においしいものを食べたときの「ああ、おいしい!」と感激する気持ちや、いい音楽を聴いたときの感動は、どちらも明日への活力になる。最良の料理、最良の音楽は、人生の喜びになるんです。でも、どこにでも転がっているものじゃない。材料を厳選したりソースを工夫したりして、「もう一度、この店の料理が食べたい」と思ってもらえる。私はそんな音楽を、これからも作っていきたいですね。

デビュー40周年で「オールタイムベスト」

11月30日発売のオールタイムベストアルバム「矢野山脈」

11月30日発売のオールタイムベストアルバム「矢野山脈」

――今年デビュー40年を迎えられました。振り返っていかがですか?

「40周年ですよ」って言われて、「あ、そうなの?」って。実はあまり覚えてないの(笑)。言われてみればそんなことあったわね、そういう曲書きましたね、みたいな程度で。でも、改めて自分が録音したものを聴いてみると「かっこいいじゃない!」って思うのよ、本当に(笑)。よくこんなプレーできたわね、って、ちょっと自分を褒めてあげたいですね。

――11月30日にはオールタイムベスト「矢野山脈」をリリースされます。

このタイトル、自分でつけたんです。「40周年のベストアルバム、何かないですか?」って言われて、即座に「山脈。矢野山脈」って。苦労して山あり谷あり、っていうことではなくて、英語で言う「massive」。何かどでかい塊、そういうイメージですね。40年分たまったら結構な量になるじゃん?って。でもその中に、最良の材料をあちこちから集めてきて、おいしいソース作りに試行錯誤を繰り返して、という苦労はあった。まぁそれも、きれいさっぱり忘れているけど。

――とても得な性格?
ねぇ(笑)。過去に作ったものを今聴いてもらい、皆さんに喜んでいただけたら、私、本当にいいことしたなぁ、ってうれしくなります。

――山脈の先に、どんな風景が見えていますか?
宇宙、かしら?(笑)。自分の音楽を作りたいという気持ちがある限りは、作り続けていると思います。ピアノを弾くのが嫌になったことは、生まれてこのかた一度もないので。あ、でも練習はイヤよ(笑)。


矢野顕子(やの・あきこ)
1955年、東京生まれ。青森で過ごした幼少時からピアノを始める。青山学院高等部在学中からジャズクラブ等で演奏、1976年「JAPANESE GIRL」でソロデビュー。1979~80年、YMOの2度のワールドツアーにサポートメンバーとして同行。1981年、シングル「春咲小紅」がヒット。ポップスのフィールドにいながらも、常にジャンルにとらわれない、自由・ユニークで質の高い音楽を生み出し続けている。
1990年、生活と音楽制作の拠点をニューヨークに移す。2000年代に入り、エレクトロニカ系ミュージシャンの故レイ・ハラカミや、ジャズピアニストの上原ひろみなどとコラボ。
2015年、アルバム「Welcome to Jupiter」をリリース。また、20周年を迎えた「さとがえるコンサート」でTIN PAN(細野晴臣/鈴木茂/林立夫)と共演、その模様をおさめたアルバムと映像作品の2作を発表。
2016年、ソロデビュー40周年を迎え、11月30日にオールタイムベスト「矢野山脈」をリリース。
矢野顕子 公式ホームページ:http://www.akikoyano.com/

PROFILE

中津海麻子

執筆テーマは「酒とワンコと男と女」。日本酒とワイン、それらにまつわる旅や食、ペット、人物インタビューなどを中心に取材する。JALカード会員誌「AGORA」、同機内誌「SKYWARD」、ワイン専門誌「ワイン王国」、朝日新聞のブックサイト「好書好日」、同ペットサイト「sippo」などに寄稿。「&w」では「MUSIC TALK」を連載中。

10代、ジャズミュージシャンをひたすら目指して 矢野顕子(前編)

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