東京の台所

<137>高円寺。ナンパした彼女と始まった甘い生活

〈住人プロフィール〉
 会社員・28歳(男性)
 賃貸アパート・1K・中央線 高円寺駅(杉並区)
 入居1年・築約30年
 ひとり暮らし
    ◇
 貴重なカップルに会った。付き合って1カ月。彼の恋人は、交際未経験。つまり彼が人生で初めてできた恋人だ。
 ふたり連れ立って路地の先まで迎えに来た。そのふたりの全身から、始まったばかりのカップルだけが持つ特別の熱が発光していた。

 ロフト付きワンルーム。玄関扉を開けるとすぐIHコンロがひとつの小さな台所がある。そのコンロは火力が極端に弱いそうで、料理好きの彼は入居時から使っていない。その上に、ポータブル式のIHコンロを乗せて煮炊きをしている。
 傍らで彼女が言う。
 「2回目のデートでお部屋を初めて訪ねたら、彼がお料理を作ってくれたんです。寒いから煮込み料理にしたよと言ってポトフを。あとはチーズとクラッカー。すっごくおいしくてびっくりしました」
 学生時代は居酒屋でバイトをし、就職後はシェアハウスで暮らした。そこでよくホームパーティーを開いていたので、ほかの人の手料理を覚え、レパートリーはどんどん広がっていったらしい。
 「ふうん、そういうバックグラウンドがあったんだね」
 彼女がうっとりした瞳で言う。くどいようだがなにせ付き合って1カ月。まだまだ知らないことだらけで、取材を通して互いを知っていくようなふしもある。
 「その家にブラジル系アメリカ人もいて、ミートソースの料理がおいしかったのです。だから今、研究中。基本、シェアハウスは料理上手な人が多い感じがしますね。あの経験は大きかったかもしれない」

 11月のある日。高円寺の洋服屋兼バーという個性的な店で、彼が彼女に声をかけた。ひと目ぼれだった。すぐにLINEのIDを交換し、数日後にクラフトビールの店で初デートをした。洋服屋で出会う時点でファッションの好みが共通しているし、ふたりとも酒が好きで食べることが好き。出会うべくして出会ったのだろう。
 また、そんなおいしいもの好きの20代のふたりに高円寺の街はすこぶる優しい。
 「すごく飲んでもふたりで三千円とかなんです。飲み屋が安いし、適当に入ったお店でもけっこうおいしい。行きたい店がたくさんあって困るほどです。スーパーも安いんですよ。高円寺は10代から60~70代までいろんな世代が入り交じって、他人を排除しないあたたかさがある。暮らしやすいなと思います」
 じゃがいもをアンチョビとにんにくとオリーブオイルで味つけするアンチョビポテト、パスタ、すき焼き、なんでも作る。初めてする恋愛で、自分のためだけに彼氏がこんなに料理をしてくれたらどれだけうれしいだろう。
 「豆と豚肉のトマトソース煮が、お豆が溶けてしまうまで煮込んでありました。私のためにそこまでしてくれた時間がうれしい。仕事がしんどくて、彼と付き合うまであまり食欲がなかったのです。でも今はおかわりするくらいで、健康になりました」

 また、恋する喜びを彼女はこんな言葉で表現した。
「朝起きたら、あ、どうしてるかなっていちばん最初に彼の顔を思い出す。恋人のいる実感をいちばんもてる瞬間ですね」
 彼は「自分が彼女の初めての恋人。しっかりしなくちゃと気が引き締まります」と、まっすぐなまなざしで語る。
 恋愛はめんどくさいから恋人を持たない若者が多いと聞くが、ふたりを見ている限り、SNSの発達したきょうび、素直でありさえすれば恋愛を始めるのは難しくないし、めんどくさいことの百倍楽しいことだらけに思えてならない。

 たまたま彼女の誕生日とクリスマスが重なり、彼の手料理を食べることが多かった。そのぶん心の距離も猛スピードで縮まった。
 次に挑戦したいのは、麻婆豆腐とチヂミだそうだ。どちらも、まずひとりでは作らない料理である。その勢いで聞いてしまった。
「これからふたりはどうしたいですか?」
 彼が「けっ」と言いかけてしばらくしてから、言い直した。
「来週彼女のご家族と会うんです。今からドキドキしちゃって……」
 透視はできないが、私の勘は今回当たるような気がしている。おそらく「けっ」のあとは「結婚したい」で、家族に会ったあとはその方向にゆっくり舵(かじ)を切っていくんだろう。
 これからいろいろあるよと、水を差すようなことは言うまい。恋の始まりに立ち会えた幸運を私も素直に感謝しよう。若者よ、携帯を持って街に出よう。そしてひと目ぼれした異性にはすぐさま聞くのだ。LINEのIDを。

(次回は2月15日に掲載の予定です)

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PROFILE

大平一枝

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。
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<136>料理で蘇る母の気持ち、子どもの気持ち

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<138>いつか笑顔で“東京にサヨナラ”を

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