東京の台所

<148>洋画家の父が愛した家

〈住人プロフィール〉
 美術史家、絵画教室主宰(女性)・59歳
 戸建て・2DK(アトリエ)+5DK(離れ)・小田急線 祖師ヶ谷大蔵駅(世田谷区)
 築年数40年・入居40年・長男(24歳・大学生)とのふたり暮らし

    ◇

 私が、営業成績を上げたい不動産業者なら、「壊してマンションにしませんか」と、日参したくなるような街の中心地に、その家はある。玄関先まで続く小径(こみち)の脇にはバラや日々草、ローズマリーの庭が。2DKの母屋と、5DKの離れの間には、花水木や夾竹桃(キョウチクトウ)の裏庭もある。木造平屋の2軒を要する敷地は、あじさいや竹の生け垣で、緩やかに目隠しがされている。
 そこだけ空が抜けている。こんな都会で、なんとぜいたくな空間だろうとため息が漏れた。

 聞くと案の定、毎日のように業者が来るという。離婚をして母ひとり、子ひとりで暮らす身に、相続やら維持やら大変な事情はあると思うが、どうかマンションなどにしないで下さいね、と身勝手なことを頼むと、「しませんよー」と言って、カラカラと豪快に笑いとばした。

 父はヨーロッパで絵を学んだ著名な画家で、アトリエは24畳。台所の横には、画商と商談をする専用の部屋があり、ひとり娘の彼女は、恵まれた環境で育った。

 その父は、夕方5時から11時まで晩酌をするのが日課で、必ずビール2杯、ワイン、日本酒5合、焼酎、ブランデーのフルコースをたしなむ。家で客を招いて飲むのが好きで、幼い頃からいろんな職業の人が出入りするのを見てきた。作家、音楽家、オペラ歌手、詩人、ギタリスト、料理家etc.

 遅くまで酒を酌み交わす来客に、母はバラエティーにとんだ料理でもてなした。大学で栄養学を学び、料理が好きだった。おかげで、娘の彼女は、即席ラーメンを食べさせてもらえず、長い間、憧れていたという。

 父は15年前、母は3年前に、他界した。取材した台所は、母が使っていたもので、今は、絵の教室の生徒たちがくつろぐ場として、おもにおやつの時間に使っている。
 そのため、マグやポットがあちこちにある。圧倒的に、“もの”が多いのだが、なぜか不思議と落ち着く。絵を描く合間に、ほっとひといきつくのに、確かにこの台所は居心地が良さそうだ。

 「絵を描いているとつい、につまってしまったりするものなんです。そんなとき、ふっとここへ来て、お茶を飲みながら気の合う人とおしゃべりをする。そうすることで気分転換にもなりますしね。なにかヒントをもらったり。私はおやつも大事な時間だと思っています」

 いっけん優雅だが、母の介護と更年期障害が重なった時期は苦しい日々が続いたらしい。昼間は大学で美術史を教え、帰宅すると介護にあたる。重度認知症の母が、ベッドから落ちないよう、夜中3時頃までは母のそばで書き仕事をして見守った。

 しかし徐々に冷えや自律神経の乱れがきつくなり、大学講師の仕事を減らさざるをえなくなった。
 そのころ、自宅での絵の教室を引き継いだ。父が主宰していた教室は、父の死後、母が絵の先生を招いて運営をしていた。母が倒れたのを機に、彼女が継いだ。

 「若い人から、父の代から通うお年寄りまでいろんな世代、いろんな職業の生徒さん、生徒さんを教える画家やプロのモデルさんが来て、楽しいです」

 母をみとった今は、これまで以上に絵の教室に力を注いでいる。それは自分が苦しかった日々とつながっている。
 「生徒さんの絵を見ると、どんな心の状況か伝わってきます。私も介護で疲れていたとき、そうだったのですが、体中が緊張してがちがちな人って、若い人の中にもいるんですね。今の世の中、リラックスできていない人は多いんじゃないかなあって、しみじみ感じますね」
 この台所でのおやつの時間にこだわるのもそんな理由からだ。
 「私はアートセラピーなどよくわかりませんが、緑に囲まれたアトリエで絵を描いて、おいしいお茶とおいしいお菓子を食べたら、きっとリラックスすると思うんです。絵を描くと、ものを見る目も変わってきます。季節のささやかな変化にも気づくようになり、ものの見方が深くなるんですね。みんな、きゅうきゅうしないで、ここで絵を描きながら、心を開放してほしいなと。そんな場になったらうれしいです」

 ああ、だからあんなふうに朗らかに「家を売りませんよ」と笑い飛ばせるんだなとわかった。
 なにしろこの家は、両親の思い出が詰まりすぎている。そのうえ20~30年来通う生徒もいる。
 緑も土も空もある。どれもかけがえがない。

 来る人の心を開放させたいという彼女の願いがすみずみまでいきわたっているから、こんなにも、ものがあふれかえっているのに居心地がいい。私の心を見通したように、最後に彼女は言った。
 「一度、絵の教室にいらっしゃいませんか」
 絵心があったら、迷いなくうなずいているんだろうな。

 
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PROFILE

大平一枝

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。
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