東京の台所

<165>本日解体。86歳元化学者、想い出深き10畳のお勝手

〈住人プロフィール〉
主婦(女性)・86歳、
戸建て・7LDK+2LDK・東横線 都立大学駅(目黒区)
築年数35年・入居35年・ひとり暮らし

料理は化学反応と同じ

 静岡の高校から、好きな化学を追究したいと東大に進んだ。
 そこで出会った2年上の先輩と交際し、ともにアメリカへ留学。ハーバード大学大学院を経て、帰国後結婚した。東京オリンピックに日本全体が沸く1964年のことだ。

 「留学先のホストファミリー宅で、食器乾燥機やドラム式の洗濯機を見て驚きました。大容量で家事も楽になる。自分もいつか家を建てたら、絶対取り入れようと思いました」

 一男二女に恵まれ、子育てをしつつ、国の機関で化学者としてフルタイムで働いた。
 まだ、保育園に預けることへの世間の目が厳しく、長女をベビーホテルに3カ月預けることもあった。
 「男性と同じ量の仕事をこなしていましたから。昭和40年代当時は保育園に堂々と預けることに対して、育児の手を抜いているという見方が主流で、預け先には腐心しました。でも仕事のほうは充実していて、レクリエーションも豊富で、ピンポンやテニスなど楽しい思い出がたくさんあります」

 料理は昔から好きだ。実家の母も料理好きで、刺し身の扱い方、魚のきれいな食べ方、和食の料理の基本などを自然に学んで育った。
 洋食は留学先で覚えた。
 今でも、分量はきっちり量る。
 「化学屋でしたから(笑)。料理は化学反応と似ているからおもしろいの。夫はお酒好きで、部下を招くのが好き。仕事から帰ると、玄関にずらーっと30足くらい靴が並んでいるときもありました。そうなると、ひと息つく間もなく台所に立つんです。人を招くよと、1本電話をくれるといいんだけど、そんな時代じゃないですから。いつもてんてこまいなの」

 舅の介護を機に、嘱託勤務になった。現在の家は、51歳の時に建てた。昭和設計で知られる建築家、杉坂智男の作品で、7LDKと2LDKの2世帯住宅。ぜいたくな広さ、瀟洒(しょうしゃ)な作りが特徴だ。
 留学時代に憧れた食器乾燥機、ドイツ製の洗濯機も入れた。夫に「キッチンは君の好きなようにしていいよ」と言われた。
 「それまでおいしいものを食べさせてきましたから。そのご褒美だったのかしらね」と彼女は、冗談を言って笑った。

 子どもが巣立つまでは、家族5人、広い台所で食べた。
 来客時や誕生日などのイベントは、20畳余りあるリビングダイニングで。

 ここまで大きな都心の注文住宅が登場するのは本欄でもまれのため、今日取り壊す、という日に無理を言って押しかけた。
 取材をしているそばで、解体業者が次々荷物を運び出していた。

 化学者の夫は足を悪くし、介護施設へ。3人の子どもたちはそれぞれ家庭を持っている。7LDKに実質ひとりで暮らしていた母に、同居を申し出たのは、妻の実家との間を行き来していた長男だった。
 この土地に、妻の家族との2世帯住宅を建て直そうという息子のアイデアに、彼女は賛同した。

 「取り壊すにはもったいない築年数ですが、足を悪くした夫も一緒に暮らせるような作りにするというので。もう自分があれこれ言う時代じゃない。息子が一人前にいろいろ考えてくれているんだなあと思ったら、素直にうれしかったです」
 とはいえ、嫁の父親とも住むのにためらいはないのだろうか。

 「息子の考えてくれたこと。だから信用しています。それに、私は昔から、他の人と歩調を合わせるのが苦にならないんです。こういう人かとわかったら、それに合わせた付き合いをすればいい。無理に自分を主張したり、相手を自分にあわせようとすると難しくなる。これまでもなんとなくそうやって、どうにかこうにか生きてきましたので。不安はないです」

心の根っこにあったもの

 大きな家、当時の最新式の設備の台所。幸せを絵に描いたような人生にも思えるが、結婚53年のうち3分の1あまりが、介護に費やされた。

 同居の舅(しゅうと)を5年。姑(しゅうとめ)を8年。ひとり娘だったため、静岡の両親をひきとって5年。やっとひと息つき、さあ自分の趣味の時間でも、と思った矢先の2年前、夫の持病が悪化して、歩行困難に。介助が必要な生活になった。

 つまり子育てが続く40代から、今日までずっと、誰かの世話をしてきたのである。
 育児と介護は女のたらい回し、という言葉がある。長男の嫁として多くの先達が通ってきた道であろうが、彼女の費やした時間の果てしなさを思うと、胸が詰まる。

 「私の宿命だと思っています。報われないつらさ? ええ、わかってもらえないんだなあという思いはありましたが、誰に愚痴ってもしょうがないですしね。姑は認知症で、排せつ物のことや、ものを盗った・盗らないなど、苦しいこともありました。夫にもそれを愚痴ったことはないですね。だって、自分の母親の悪口を言われるのは誰だっていやでしょう?」

 最近、大学の同級生が遊びに来て、不意に言った。
 「介護施設もろくにない時代から、君は本当によくやったね」
 別の友だちが、宴席でみんなにこう言ったこともある。
 「この人はすごいんだよー、40代から、ひとりで親の面倒4人も見てきたんだから」

 ああ、友だちは知っていた。わかってくれる人がいたと胸がいっぱいになった。
  最初に看取った舅が、かつて言ってくれた言葉が、心の奥底に灯っている。
 「いい人が嫁に来てくれた」
 介護は、人を恨むべき事柄ではないと彼女は言う。
 「期待はできないと見極めれば、恨んでいる時間がもったいなくなる。子どもとして、嫁としてやるべきことをやるだけ。投げ出せるものでもないですから」

 このことで夫と言い争ったことも一度もない。
 今は、介護施設から夫を引き取り、息子一家と暮らすことを楽しみにしている。
 昭和の女性はどうしてここまで我慢強いのか。
 どうしてここまでがんばれたのだろうか。終わりの見えない介護の日々、彼女を支えたのはなんだったのだろう。

 そんなことはあらためてかんがえたこともなかったわと、頭をひねる彼女に私はなおもたたみかけた。「私はとても、宿命なんていう言葉でのりきれないと思うんです。どうしてのりきれたんでしょうか。思い出していただけませんか」。つつしみ深く、自分を前に出そうとしない彼女の言葉を私はじっと待った。

 ああ、たぶん、と彼女はようやく口を開いた。
 「大変だったとき、私はなぜこの人と結婚したのか? と考えました。生き方の一番基盤としていることに自分は同調できる。だからやってこられた。それは、人に対して優しいということです。人の価値は、富や名声や肩書や学歴でもない。人に対していかに優しいか、で決まる。そりゃあ、いまだってわがままなどそのときどきの瞬間的な気持ちは色々あります。でも、根っこが同調できる。だから、いろんなことがたいしたことじゃないって思えた。介護もがんばれたんでしょう」
 それは53年間変わりません、と言ってほほ笑んだ。

 2月10日。解体のため実家を退去する最後の日、娘・息子らと家の壁に黒マジックで落書きをした。彼女はこう書いた。

『長い間 家族の食事をおまもり下さいました 
お台所の神様、本当に有難うございました
引続き 何卒よろしくお願いいたします』

 それはこの家に感謝していたからですよねと言うと、「いいえ」と首を振った。
 「家に感謝、ではないです」

 家という空間には、介護の思い出も染みついている。そこに連綿と横たわっていた慟哭(どうこく)は「長らく思い出したくなかった」という言葉から容易に想像が付く。
 おそらく、家族を育んできた歳月への感謝、が一番気持ちに近いのではあるまいか。
 台所に「お」をつける世代の、報われたり報われなかったりする積み重ねてきた長い時間に心から敬意を表しながら、私はシャッターを押し続けた。

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PROFILE

大平一枝

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。■レンズ協力:SIGMA ART|18-35mm F1.8 DC HSM、SIGMA 17-70mm F2.8-4 DC MACRO HSM/
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<164>1LDKで5人暮らし。台所を家の中心に据えたわけ

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