鎌倉から、ものがたり。

鎌倉・庭のある家の応接室でコーヒーを。「カフェ カエル」(前編)

 鎌倉・二階堂は、鎌倉宮や荏柄天(えがらてん)神社といった由緒あるお宮に並んで、これぞ古都、という趣の邸宅がたたずむタイムスリップ・エリアだ。別世界に遊ぶ気分で路地歩きをしていたら、モダンな雰囲気が際立つ、一軒の家が目に留まった。

 積み木が3本並んだような形で、黒い板壁がアバンギャルド。それでいて、人が暮らす温かさが感じられる。玄関先に回ると、うれしいことに「カフェ カエル」の看板があり、庭伝いに家の中に入れるようになっていた。

 迎えてくれたのは、主の五十嵐哲男さん(70)だ。2010年、定年で勤務先の大手広告会社を退職したことを機に、カフェをはじめて8年になる。
 「ずっと営業で、カフェ経営はおろか、コーヒーや紅茶などにも、まったく縁のない世界にいたのですが……」

 そう謙遜する五十嵐さんだが、カウンターの向こうでコーヒーを淹(い)れるマスター姿が板に付いている。

 この家は40年前に、奥さんの美江さんとともに「庭のある家に住みたい」という思いで、見つけたものだった。アメリカ人の建築家が設計したという瀟洒(しょうしゃ)な邸宅は、大胆な空間と、木を多用した内装が特徴。カフェスペースになっている応接室は、高い勾配天井があり、まるで高原の山荘にいるような気分になる。

 五十嵐さんの現役時代は、日本の高度経済成長期に重なる。企業戦士として毎日遅くまで仕事の日々。一方、美江さんは食や庭に対する審美眼を生かし、家庭を守りながら、一日一組の食事会や、懐石料理の教室を催してきた。

 「みなさんが『おいしい』と言ってくださる場があればいい、ということで、僕も定年を過ぎたら、カフェでもやってみるかな、なんて冗談交じりに言っていたのですが、それが本当になってしまって」

 当初、腕に覚えはまったくなかった。ご近所仲間から「明月院の近くにある『石かわ珈琲』のコーヒーがおいしいですよ」と教えられて、出かけていったら、本当においしい。その場で店主の石川新一さんに教えを乞い、「石川さんの言うなりになって(笑)」、勉強を重ねた。その縁で、「カフェ カエル」で出すコーヒーは、ずっと「石かわ珈琲」の豆を使っている。

 カフェは、午前11時から午後5時まで。水・木曜日は定休日で、8月はひと月閉める。
 こう聞くと、自分の家で、マイペースで、と定年後の理想を実践しているようで、うらやましくなる。
 「いえ、お店をやってみたら、休みの日も仕込みや掃除があるし、大変なことだとあらためて実感しました。自分の家だから、適当にできる、なんてことは、まったくありません」

 ただし、それが逆に「ありがたいこと」と五十嵐さんは付け加える。

 「お客さまがいらして、食事や飲み物を『おいしい』と言ってくださる。それが、こんなにうれしいことだと、はじめて知りました。そういうコミュニケーションは、仕事ではなかったものでしたので、人との接し方が変わりましたね」

 五十嵐さんが属する団塊の世代が、いっせいに定年退職を迎えた後、第二の人生をどう生きるか、という問いが社会の中で重みを増している。自由な時間に還ったとき、何をしようか――。五十嵐さんのように、カフェを開いて、近隣と新たな関係を築いていくことは、ひとつの希望に違いない。(→後編に続きます

cafe kaeru(カフェ カエル)
神奈川県鎌倉市二階堂936

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PROFILE

  • 清野由美

    ジャーナリスト。1960年、東京都生まれ。東京女子大学卒。慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科修士課程修了。英ケンブリッジ大学客員研究員。英国留学、出版社勤務を経て、91年にフリー。先端を行く各界の人物インタビューとともに、時代の価値観や感覚、ライフスタイルの変化をとらえる記事を「AERA」「朝日新聞」「日経ビジネスオンライン」などに執筆。著書に『新・都市論 TOKYO』『新・ムラ論 TOKYO』(隈研吾と共著・集英社新書)、『ほんものの日本人』(日経BP社)、&w連載「葉山から、はじまる。」を1冊の本にまとめた『住む場所を選べば、生き方が変わる――葉山からはじまるシフトチェンジ』(講談社)など。

  • 猪俣博史(写真)

    1968年神奈川県横須賀市生まれ。慶応義塾大学商学部卒業。卒業後、カナダを拠点に世界各地を放浪。帰国後、レコード会社、広告制作会社勤務などを経て1999年にフリーに。鎌倉、葉山を拠点に、ライフスタイル系のほか、釣り系媒体なども手がけ、場の空気感をとらえた取材撮影を得意とする。本連載のほか、&travelで「太公望のわくわく 釣ってきました」の執筆と撮影を担当。神奈川県三浦半島の海辺に暮らす。

日曜日、カフェで、オーダーメイドの靴を作る。「Shy」

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秘密の花園の野菜料理と、午後のおしゃべり。「カフェ カエル」(後編)

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