東京ではたらく

映像ディレクター:菅井亜希子さん(42歳)

  

職業:映像ディレクター
勤務地:さまざま
仕事歴:19年目
勤務時間:不規則
休日:不規則

この仕事の面白いところ:自分の知らない世界に出会えるところ
この仕事の大変なところ:楽できないところ。楽してしまったら何も生まれないので

    ◇

フリーランスで映像ディレクターとして働いています。映像ディレクターは、CMやミュージックビデオなどさまざまな映像作品を制作する際に、企画を立てたり、現場で指揮をとったり、ときには自分で編集作業をしたりと、映像作品を作るにあたって、最初から最後まで関わる立場にある仕事です。

制作する映像のジャンルも、映画やドキュメンタリー作品、CMやウェブ広告、ミュージックビデオなど多岐にわたりますが、私は主に音楽関係の仕事をメインに経験を積み、現在は音楽関係のほか広告やアート関係の映像製作も行なっています。

出身は神奈川県の逗子です。父はプロのトランペット奏者で、小さな頃から音楽は身近にありました。音楽家の家に生まれたことで、「幼少の頃から音楽の英才教育を受けてきたの?」と聞かれることもあるのですが、特別そういったことはなくて。

一応ピアノを習ったりもしたのですが、演奏するのはあまり得意ではなくて……。でも音楽そのものは好きだったので、物心ついた頃から音楽に関わるような仕事がしたいなという漠然とした希望は持っていました。

もうひとつ、ずっと身近にあったのが絵画でした。同居していた父方の祖母が芸術全般を好きな人で、小学生の頃からよく展覧会に連れていってくれました。家には図録もたくさんあったので、世界のマスターピースを見たりして、子どもながらに刺激や衝撃を受けていたんだと思います。

撮影した映像をパソコンに取り込んで編集作業をする。「昔は特別な機材がないと編集作業ができなかったので、今は随分楽になりましたね」


撮影した映像をパソコンに取り込んで編集作業をする。「昔は特別な機材がないと編集作業ができなかったので、今は随分楽になりましたね」

高校生になってすぐに美大専門予備校に通い始めたのは、美大に入りたいという確固たる希望というよりは、小さい頃から持っていた絵画に対する興味からでした。絵は好きでも本格的に習ったことがなかったので、ちょっとやってみようかなという軽い気持ちで。

周囲もほとんどが絵画初心者なので、簡単なデッサンとか基本的なことから学んでいくんですけど、それも楽しくて。でも一番よかったのは、自分と同じ分野の趣味、興味を持っている友人ができたことです。学校だと色々な生徒がいますから、必ずしも趣味が合う友人ができるとは限らないですよね。

私は展覧会とか、ちょっとマイナーな映画なんかが好きだったのですが、クラスには男の子と付き合ってるような早熟な子もいました。そんなキラキラ系の女子からは「変わってるね」なんて言われることもあって。そんな中で、好きな世界の共通言語を持った友人に出会えたことは本当にうれしかったし、楽しかったですね。

卒業後は美術短期大学の油絵科に進学しました。その時は「将来、絵で食べていく」なんていう具体的なビジョンはまだなくて、ただ「絵が好き」「絵の勉強がしたい」という気持ちでした。

広告やミュージックビデオなど、クライアントがいる仕事は自分で絵コンテを作ってプレゼンすることも。「手描きのコンテをパソコンに取り込み、イメージ写真と組み合わせて、よりわかりやすく構成します」


広告やミュージックビデオなど、クライアントがいる仕事は自分で絵コンテを作ってプレゼンすることも。「手描きのコンテをパソコンに取り込み、イメージ写真と組み合わせて、よりわかりやすく構成します」

短期大学は四年制大学に比べてカリキュラムがタイトなので、毎日課題に追われていました。「今日は授業サボって遊びに行く?」みたいな、大学生らしいこともなく(笑)。あっという間の2年間だったなという感じです。

就職活動をするにあたっては、絵の道にこだわることはしませんでした。とにかく自分の好きなことを仕事にしたいという気持ちがあって、それを突き詰めていくと、一番に出てきたのは絵と同じく、小さな頃から親しんできた音楽でした。

聴くのももちろん好きでしたが、その頃、夢中になっていたのがミュージックビデオ。当時はテレビの深夜枠でミュージックビデオを流す番組がはやっていて、それを食い入るように見ていました。

80年代ですからマイケル・ジャクソンもリアルタイムで聴いていましたし、莫大(ばくだい)なお金をかけて作られたミュージックビデオも多かったんですよね。それはもう衝撃的で、何よりめちゃくちゃカッコよかった! それで、自分もこういう映像を作る仕事がしたいと思って、映像の世界に進みたいと思うようになったんです。

当時は映画作りを学べる専門学校はいくつかありましたが、いわゆる映像作家になる勉強ができる学校というのはほとんどなくて。これはもう働きながら現場で修行をするしかないなと思いました。

撮影現場は体力勝負。動きやすい服装は鉄則。「20代の頃は徹夜もへっちゃらでしたが、だんだん辛くなってきて(笑)。でも、それでも面白い!という気持ちの方が強いから、辞められないんですよね」


撮影現場は体力勝負。動きやすい服装は鉄則。「徹夜で現場を全速力で走ってもへっちゃらでしたが、もうそれは無理ですね(笑)。でも、それでも面白い! という気持ちの方が強いから、辞められないんですよね」

それでCMやミュージックビデオを制作している会社を受けたりもしたのですが、なかなか狭き門で……。結局、大学を卒業してから3年ほどは映像に関わる仕事はできず、アルバイトでしのぐ日々が続きました。

チャンスが訪れたのは23歳。当時は広告やイベントに出演するタレントやモデルを提案する、いわゆるキャスティング会社でアルバイトをしていたのですが、そこに出入りしていた音楽系の制作会社の方と知り合いになる機会がありまして。

「本当は映像の仕事がしたい」と話したら、「じゃあうちで働いてみる?」と。変わらずアルバイトという待遇でしたが、それでも夢だった世界に一歩でも近づけるならと、二つ返事で働かせてもらうことにしました。

憧れのミュージックビデオの現場に入ってまず驚いたのは、とにかくその規模の大きさでした。数分の作品を作るために100人以上のスタッフが関わっていて、一晩中、まるでお祭り騒ぎみたいに撮影をするんです。

音楽業界が盛り上がっていた時代ですから、1本のミュージックビデオに億単位のお金がかけられることもあって(しかもそれを一晩の撮影で使ってしまうことも!)。本当にもう、現場全体にアドレナリンが充満しているような感じで(笑)。

何が何だかわからないほど熱気に満ちた現場でしたが、その勢い、熱みたいなものがたまらなくて、最初はほとんど雑用係のような立場ではありましたが、無我夢中で働きました。

母になっても辞められない。心震わす映像を追いかけて

撮影はほとんどがデジタルカメラ。「ムービー用のカメラよりボケ味が強かったり、雰囲気のある映像が撮れるのが好きなんです。機材も随分軽量化されたので、女性にはありがたいです」


撮影はほとんどがデジタルカメラ。「ムービー用のカメラよりボケ味が強かったり、雰囲気のある映像が撮れるのが好きなんです。機材も随分軽量化されたので、ありがたいです」

映画やCM撮影の現場でもあることかもしれませんが、ミュージックビデオの制作現場は「ありえないこと」の連続です。例えばあるアーティストの撮影では、スタジオにスーパーマーケットのセットを作るということで、「豚の肉を丸ごと一頭つるしたいから手配して」なんてディレクターから言われたり(笑)。今なら、「絶対無理!」と思うんですけど、みんな必死ですから、とにかくなんとかする方法を考えるんですよね。

今でも覚えているのは、大所帯で富士山に登ってミュージックビデオを撮影したことです。朝からスタジオで撮影をして、夜にみんなで富士山麓(さんろく)に移動。そこから山に登って、夜明けの富士山の中で撮影するという……。

撮影部も照明部もものすごい荷物を背負って登って、みんな意識ももうろうという感じでしたけど、完成した映像を見た時は「ああ、すごくいいものができた!」という確かな手応えがあって。そういう喜びを大勢で共有できる瞬間があるから、どれだけ辛くても辞めたいとは思わなかったですね。

ディレクターとしてデビューしたのは27歳の頃でした。制作アシスタントとして2年ほど勤務した後はフリーランスのプロダクションマネージャーとして活動していたのですが、その時お世話になっていたレコード会社の方から声をかけていただいて。デビュー作として、あるバンドのミュージックビデオを作らせていただくことになりました。

「国内外で高い評価を受ける写真家・川内倫子さんの映像作品制作をサポートさせていただいたことで、『アートと映像』という新しい世界が開けたような気がしました。映像の世界には、まだまだ面白いことはたくさんあるんだなって」


「国内外で高い評価を受ける写真家・川内倫子さんの映像作品制作をサポートさせていただいたことで、『アートと映像』という新しい世界が開けたような気がしました。映像の世界には、まだまだ面白いことはたくさんあるんだなって」

ディレクターとしての初仕事で知ったのは、それまでやっていた制作業務とディレクターというのは、同じ制作の現場にいても全く違う役割なんだということでした。

制作業務は撮影がスムーズに進むように手配や段取りをする係なのですが、私は長らくそういった仕事をしていたので、自分がディレクターをしているときでも、全体の進行具合が気になってしまうんですね。だから撮影時間が押していたりすると、「ああ、早くやらなきゃ!」と思ってしまったり。

でもディレクターの仕事というのは、何をおいても最高の作品を作ることなんです。だからたとえ時間が押していても、必要とあらば粘ったり、どこまでも突き詰めていかなくちゃいけない。その上で現場への心配りも必要ですから、そこのバランス感覚も大切なんですね。独りよがりになってもいけないし、かといって「これくらいでいいか……」と割り切ってしまってもいけない。

デビューしたての頃はその辺りのバランスが難しくて、作品が出来上がってすぐは「ベストを尽くしたぞ」と思っていても、振り返ってみると反省点がどんどん出てくるんです。そうするとその度に、「次はもっとこうしよう」「次こそはもっといいものが作れるはずだ」という気持ちが湧いてくるんですね。

「うまくできなかった」と思ってしまうと落ち込んでしまいそうですが、幸いにも私は気が強い方で(笑)。それらを「自分への期待」という風にとらえて、とにかく次へ、次へ。失敗も反省も次の仕事につなげていこうという気持ちで毎回仕事に臨んでいました。

すると徐々に仕事が回ってくるようになって。20代後半から30代にかけては憧れの世界で力いっぱい働いて、たくさんのことを吸収できた時期でした。

仕事中のストレス解消法は「息子の写真を見ること」。「こうして仕事を続けていられるのは支えてくれる夫や家族のおかげです。本当にありがたいことです」


仕事中のストレス解消法は「息子の写真を見ること」。「こうして仕事を続けていられるのは支えてくれる夫や家族のおかげです。本当にありがたいことです」

大きな転機が訪れたのは30代の後半でした。デビューしてからはミュージックビデオやアーティストのライブ映像や音楽ドキュメンタリー、さらには広告関係の仕事も増えて、とにかく好きな世界で突っ走ってきました。
でも、気づけば40歳はもうすぐそこ。私は31歳で結婚していたのですが、その頃になってようやく、子どもを持てる年齢の期限が迫っていることに気づいたのでした。

とりあえずと思って訪れた町の産婦人科で投げかけられたのは「あなた、今まで何やってたの?」という言葉。まあ、「確かにそうですよね……」という感じなのですが、そこでもうひるんでしまって。

数年後、38歳でようやく重い腰をあげて不妊治療専門の病院を受診したときには「あなたの排卵は今にも止まってしまいそうよ」と言われてしまいました。

「子どもを持ったら今までのようには仕事ができなくなる」。それまで子どもを持つことについてそこまで真剣に考えてこなかったのには、そんな思いもあったと思います。でも病院で聞いた言葉をきっかけに、覚悟のようなものが決まりました。「いつかは……」は、もうない。それをはっきりと自覚したのです。

それから3度の体外受精を経て、幸運なことに40歳で出産。今、息子は2歳になりました。なんとか保育園も見つかり、私は再び映像ディレクターとして働いています。

高齢出産ということで、家族や友人からはたくさんの安産守りが。「本当はお礼参りで返さないといけないらしいのですが、なかなか手放せなくて。大切に持っています」


高齢出産ということで、家族や友人からはたくさんの安産守りが。「本当はお礼参りで返さないといけないらしいのですが、なかなか手放せなくて。大切に持っています」

出産前に、「以前と同じスタンスで仕事はできないぞ」と覚悟はしていたのですが、やっぱりできませんね(笑)。今は「これならできる、これはできない」というボーダーを見極めながら、手探りで仕事をしている状態です。

以前担当していた大掛かりなミュージックビデオや海外での撮影などは参加できなくなりましたが、新たに取り組み始めたこともあります。それは、それまでやっていた音楽や広告など、いわゆる商業ベースの仕事とは違った、アートにまつわる映像制作です。

最近では写真家が作る映像作品のテクニカルサポートをしたり、そうした作品を美術館やギャラリーに設置したりする仕事も始めて、より芸術性の高い映像作品に携わる機会が増えてきました。

たとえばミュージックビデオなら、その作品が着地する場所っていうのはあらかじめ決まっているんですよね。DVDにするとかネットで流すとか、そうすることで商品の売り上げを伸ばすというのが最終目標。そういうシステムがしっかりと構築されているわけです。

でも同じ映像作品でも、アートにおける映像の役割というのはどこに着地するか、出来上がるまでわからない。そこがすごく面白いし、もともと好きだった芸術の分野でこれまで培ってきたスキルを生かせるというのはすごくうれしいことだなと思っています。

◎仕事の必需品 「映像編集用のソフトが入ったパソコンがあれば自宅でも作業ができるのでとても便利。ペンタブは細かい作業もストレスなくできるので、必須アイテムです」


◎仕事の必需品 「映像編集用のソフトが入ったパソコンがあれば自宅でも作業ができるのでとても便利。ペンタブは細かい作業もストレスなくできるので、必須アイテムです」

今後の目標ですか? まずはこの先もずっと映像制作の仕事をしていきたいということですね。人生のステージによって仕事の内容は徐々に変わってきましたが、どんなときでも自分が納得できるものを作っていきたいというのは変わりません。

私は音楽が好きで、それを通して感情の高ぶりだったりとか感動を覚えてこの仕事に就いたわけですが、そんな風に、だれかの琴線に触れるようなものを作れたらいいなという気持ちは常にあります。現場にいる全員が感動できて、最終的にその作品を見た方々の心を震わせるような仕事をすること。それが永遠の課題であり、目標です。

実は子どもを持つにあたって、仕事をやめようかと思ったこともあったんです。不妊治療の末に授かった子ですから、子育てに全力投球したいという気持ちもどこかにありました。でも、これからのことを考えると、自分にとっても息子にとっても仕事を続けていたほうがいいんじゃないかと思ったんです。

東京は本当に色々な人が暮らしている場所ですよね。一歩外に出れば様々な世界とつながれる環境にあるのだから、そこに目を向けないのはもったいないんじゃないかって。

そう考えたら、母親としての私もまた、積極的に社会とのつながりを持ち続けて、外にある多彩な世界を息子にも見せてあげたいと思うようになったんです。いろいろな家庭があって、人がいて、生き方があって。そういうものを全部、一緒に見ていきたい。

実際のところ、東京で働きながら子どもを育てるというのは楽なことではありません。それでも遠い将来、私も息子も「仕事をしていてよかった」と思えるようになれたらうれしいですね。そうなれるように、自分も成長しながら続けられる働き方を、これからも模索していきたいなと思っています。

PROFILE

  • 小林百合子

    編集者
    1980年兵庫県生まれ。出版社勤務を経て独立。山岳や自然、動物、旅などにまつわる雑誌、書籍の編集を多く手がける。女性クリエイター8人から成る山登りと本づくりユニット〈ホシガラス山岳会〉発起人。著書に『最高の山ごはん』(パイ・インターナショナル)、『いきもの人生相談室』(山と溪谷社)、野川かさねとの共著に『山と山小屋』(平凡社)など。

  • 野川かさね(写真)

    写真家
    1977年神奈川県生まれ。山や自然の写真を中心に作品を発表する。クリエイティブユニット〈kvina〉、自然・アウトドアをテーマにした出版・イベントユニット〈noyama〉の一員としても活動する。作品集に『Above Below』(Gottlund Verlag)『with THE MOUNTAIN』(wood/water records)、著書に『山と写真』(実業之日本社)など。
    http://kasanenogawa.net/

渋谷区のセラピスト:鈴木愛さん(38歳)

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フリーランス編集者:鈴木絵美里さん(36歳)

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