東京ではたらく

フリーランス編集者:鈴木絵美里さん(36歳)

  

職業:フリーランス編集者
勤務地:さまざま
仕事歴:14年目
勤務時間:不規則
休日:不規則

この仕事の面白いところ:あらゆる考えを持った人に会い、話を聞けること
この仕事の大変なところ:たくさんの考えに触れることで影響を受けすぎるところ

    ◇

肩書は何ですかと聞かれると、いつも少し困ってしまうのですが、現在の仕事内容は雑誌やウェブ媒体向けに取材記事を寄稿する執筆業が中心です。

それだけなら「フリーライター」と名乗るのが妥当だと思うのですが、私の場合はそれに加えて「自由大学」という社会人向けの学びの場で講義を受け持ったり、地方自治体が行う様々なプロジェクトの企画・運営に携わったりと、執筆以外の仕事に関わることが近年増えつつありまして。

フリーランスになる前は出版社勤務で、純粋な雑誌編集者として働いていたのですが、現在は媒体のみならず、人が集まる場やイベントなど、あらゆる事柄を構成したり調整したりする立場。より大きな意味での「編集者」なのかなと今は思っています。

出身は神奈川県の藤沢市です。両親ともに会社員で、物心ついた頃から自分も同じような働き方をするのだろうと思っていました。一人っ子だったので小さな頃からマイペース。基本的に活発で、人と一緒にいるのが好きでしたが、自分だけの時間やスペースも大切にしたいという性格で。それは今も変わっていませんね。

中学と高校は一貫教育の女子校に通いました。カトリック系のいわゆるお嬢様学校でしたが、自分は決してお嬢様ではなく(笑)。ソフトボール部に所属して、真っ黒に日焼けしていました。

その頃夢中になっていたのは国内外のロックミュージック。両親が共働きで日中はひとりでしたが、そんな時はいつもCSのミュージックチャンネルを見て、音楽の世界に浸っていました。

表参道にある「自由大学」のキャンパスにて。様々な年齢や国籍の人々が集う学びの場はいつも新しい考え方を教えてくれる


表参道にある「自由大学」のキャンパスにて。様々な年齢や国籍の人々が集う学びの場はいつも新しい考え方を教えてくれる

当時は雑誌が元気な時代で、「オリーブ」など、サブカル系の媒体の影響もあり、ヨーロッパや東欧など、ちょっとニッチな映画なんかにも興味を持っていました。

大学は東京外国語大学のチェコ科に進学しました。あまりにマイナーな学科ゆえ、チェコにまつわる確固たる夢や将来の希望があったのかと聞かれることも多くありますが、実はそんなことはなくて(笑)。単純に「中東欧を旅してみたいな」とか、あとは好きだった東欧映画の影響もあったと思います。いずれにせよ、「面白そう」という純粋な興味からですね。

1学年に15人ほどしかいないチェコ科の生活は密で、1〜2年生のうちは週に何コマも同じ顔ぶれで語学の授業がありました。「チェコに人脈を作って通訳として活躍したい」とか「言語学者になりたい」とか、しっかりとしたビジョンや野心を持っている人もいるわけです。

もちろん自分も大学で遊び回ろうとは思っていませんでしたが、やっぱりどこかで高校までとは違った、にぎやかで、人的にも場所的にも広がりのある大学生活も想像していたので、もう少し人間関係的にも広がりのある場所を探し始めまして。

そこで参加したのが、様々な大学の生徒が集まるディスカッションイベントの企画サークルでした。200人ほどの学生たちが、あるテーマについて3日間に渡り議論をするというイベントを企画・運営するサークルだったのですが、常にいろいろな大学から学生が入ってくるんですね。

いつも持ち歩いている三種の神器は取材ノートとテープレコーダー、イヤホン、お気に入りのボールペン。これとパソコンがあればどこでも仕事ができる


いつも持ち歩いている三種の神器は取材ノートとICレコーダー、イヤホン、お気に入りのボールペン。これとパソコンがあればどこでも仕事ができる

毎日、同じ顔ぶれ(しかも15人)で授業を受けていた私にとっては、このサークルに出会えたことは大きな転換で、一気に世界が広がったような気がしました。同時に、高校時代に通っていた進学塾で講師アシスタントをするようになって、そこでは高校生たちに自分の受験体験を話したり、勉強のアドバイスをしたり。

中でも興味深かったのは小論文の授業のアシスタントで、学生が書いた小論文を学生同士で読みあって添削したり、内容についてディスカッションしたり。そうすると、一人で思い至らなかったアイデアや意見が生まれたりして、文章にぐっと奥行きが出てくるんです。ああ、コミュニケーションというのはすごく大切だし、面白いものなんだなと実感しました。

就職先に広告代理店を選んだのは、サークル活動や塾でのアルバイトを通して知ったコミュニケーションの面白さを、仕事を通してもっと知りたいと思ったからでした。広告というのは市井の人々が何げなく目にするものですけど、そこから何か新しい発見をしたり、心を揺さぶられることってありますよね。そういう機会を作れる仕事ができたらいいなと思っていました。

入社後は本社のある名古屋へ。関東を出て暮らすのは初めてでしたが、東京を出てみたいという気持ちもあったので、新鮮な社会人生活でした。

配属は企業や団体のウェブサイトを製作する部署でしたが、当時はようやくインターネットが世間に広まり始めた頃。自社のウェブサイトを持っている企業も一握りで、そんな中でゼロからサイト作りをしていくのは刺激的でしたね。

移動は身軽に動けるデイパックで。「パソコンなどどうしても荷物が重くなるので背負うのが楽ですね。編集者は体力と機動力勝負なので(笑)」


移動は身軽に動けるデイパックで。「パソコンなどどうしても荷物が重くなるので背負うのが楽ですね。編集者は体力と機動力勝負なので(笑)」

でも、3年ほどその仕事を続けていく中で、少しずつ芽生えてきた気持ちがありました。それは「自分は何も生み出していないのではないか?」というジレンマ。例えば企業のウェブサイトを作るとしても、写真を撮影したり、コピーを書いたり、デザインをしたりする人がいます。

私の仕事はそれらを統括して円滑にプロジェクトを進める進行管理で、もちろんそれも大切な役割のひとつだとはわかっていても、どこかで「自分もゼロからものを作るクリエイターになりたい、でもそんな素養なんてないしな……」というモヤモヤした気持ちをぬぐいきれずにいました。

そんな時、偶然見つけたのが東京の出版社が出していた編集者の求人でした。未経験でも編集業務に就けるということで、これはなかなかないチャンスだぞと。その時はまだ、自分がゼロからものを生み出せるかどうか、確固たる自信は正直ありませんでしたが、運よく採用していただいたこともあり、東京に戻ることに決めたのでした。

出版社に入社してしばらくは前職と同じウェブ制作の部署に配属されましたが、その後、30歳くらいの時にアウトドア関係の雑誌の編集部に異動になりました。

初めて経験する雑誌編集という仕事。想像はしていましたが、やはり時間的にも体力的にもハードで、何日も編集部に泊まり込むなんていうこともよくありました。それでも「チームで一つのものを作り上げる」という強い実感があって、“部活的な空気感”というのでしょうか、それは新鮮で、やりがいも感じていました。

媒体は「自分」。個の力が社会を変えていくと信じて

「人と会って新しい考えに触れるのは好きだし、楽しいのですが、影響を受けすぎてしまうのが難点。あれこれ考えてしまって、時に疲れることもあります(笑)。それでも辞められないのが編集の仕事ですね」


「人と会って新しい考えに触れるのは好きだし、楽しいのですが、影響を受けすぎてしまうのが難点。あれこれ考えてしまって、時に疲れることもあります(笑)。それでも辞められないのが編集の仕事ですね」


ところが雑誌編集の仕事に慣れ始めた頃、東北の震災が起こりました。私が担当していたのは月刊誌でしたから、数日間編集部の機能がストップしただけで雑誌刊行が危ぶまれるという状況。とはいえ、東京も大混乱に陥っていましたから、いったん手を止めて、今、何をするべきかを冷静に考えた方がいいのではないかと個人的には思っていました。

でも、同じ編集部の同僚たちの中には「このままでは雑誌が出せない、どうしよう……」と涙を浮かべている人もいたんですね。その姿を見て、「ああ、雑誌作りというのは、これくらいの熱意と決意がないと続けていけないのかもしれない」とも感じました。

その直後、再びウェブの部署に異動になったのですが、その時に、今後の働き方を大きく変える出会いがありました。震災直後に取材でインタビューをさせていただいたあるミュージシャンの方が震災後少し経ってから「個人で新聞を作りたい」とSNSに投稿しているのを見て、「すごくいいと思うので、ぜひ作ってくださいね」と反応したんです。そうしたら「手伝ってくれませんか?」とお返事をもらったんです。

彼らはもともと、音楽活動を通して社会的なメッセージも伝えていきたいという気持ちを持っていたバンドで、震災を受けて、「若い人たちと一緒に、未来を考えるきっかけになるような媒体を作りたい」という思いを固めていました。

私もまたメディアに関わる身として、何かしら社会に向けて活動をしたいと思っていたので、二つ返事で参加を決めました。最初の頃は主に被災地に出向いて、そこで復興に向けての様々な活動をする人々を取材してきました。もちろん報酬はなく、あくまでもボランタリーな活動ですね。

ミュージシャンや俳優のインタビュー記事も多く手がける。取材前には入念なリサーチを怠らない。「いわゆる“バズる”記事より、後世に残せるようなインタビュー記事を書きたいと常々思っています」


ミュージシャンや俳優のインタビュー記事も多く手がける。取材前には入念なリサーチを怠らない。「いわゆる“バズる”記事より、後世に残せるようなインタビュー記事を書きたいと常々思っています」

実際に被災地に入ってみて驚いたのは、自分と同じように、東京で本業を持ちながらも、個人として被災地で何かしらの活動をしている人たちがこんなにもいるということでした。じつは今、講師として参加している「自由大学」の関係者ともそこで出会ったのが始まりで、その時の様々な出会いが今の仕事の基礎となっています。

震災直後から約3年間は東北や、それ以外にも全国で面白い活動をしている地域に通って取材をしました、その活動を通して自分の中にも大きな変化がありました。それは復興への活動もそうですが、何か自分たちのメッセージを発信したり、運動を起こそうとする時の規模というか、“大きさの単位”に対する感じ方とでも言いましょうか。

例えば震災直後に、岩手県で林業に携わる人々を取材させていただいたのですが、彼らは地元でたくさん採れる木材を有効活用しようと、震災前から木製の仮設住宅を作っていたんですね。みんな40代とまだまだ若い世代です。

そこに大きな震災が起こって、彼らの木製の仮設住宅が注目を浴びていたんです。私はその活動についての取材で現地に入ったのですが、話を聞いているうちに、彼らが個人的な活動として地元でロックフェスをしているということを知ったんです。

震災の年は中止となったのですが、翌年には被災地のすぐそばでロックフェスをやろうと活動を再開していて。そんな彼らの姿を見て、「東京ではこんな小さい単位で自分たちのやりたいこと、いいなと思うことを実行できないよなあ」としみじみ思いました。

東京でも何かしらのメッセージを発信したいと思う人はたくさんいると思いますが(私も含め)、「やっぱり小規模でやっても影響力がないだろう」とか、「そもそも何から始めたらいいんだっけ?」なんて考えているうちに時間が過ぎて、結局実現まで至らないというケースが多いように経験上感じます。

学生時代から大好きなロックミュージック。今も時間があればライブに出かける。「原稿を書くときは好きなバンドのTシャツを着てテンションを上げています(笑)」


学生時代から大好きなロックミュージック。今も時間があればライブに出かける。「原稿を書くときは好きなバンドのTシャツを着てテンションを上げています(笑)」

でも被災地では、復興のための様々なイベントや町おこし事業などが、各市町村ごと、もっと小さい単位ではグループごとに行われていました。しかもそれを担っていたのはその事業専属の人ではなく、ほとんどが別の本業を持っている方々。

働いてきちんと生活を維持しつつ、その上で個人の活動を通して社会に対するメッセージを発信していくというスタンスを見せてもらえたことは、自分にとって大きなことでしたし、これからのメディアの在り方、それに携わる自分の働き方について考えるいい機会になりました。東京以外の場所で活動する方々とつながれたということで、視野も大きく広がっていきました。

出版社を辞めてフリーランスになったのは震災から4年後のことでした。独立への後押しとなったのは、やはり被災地での取材経験で、彼らのように、私もまた小さな単位でも、人と人とのコミュニケーションの中でじっくり時間をかけて情報を発信していきたいという思いが強くなったからです。

これまでは出版社やテレビ局など、大きなメディアが大衆に対して一方的に情報を発信していくという構図が当たり前でした。けれど、そうではないやり方もある。疑問に思うことや、社会に提言したいことというのは、メディアに携わる者だけではなく、市井の方々も持っているはずです。

だとしたら私は、人と人が集まって、実際にそういう問題について話せるような場を作りたいし、そういう場から生まれるメッセージを取材者として伝えていきたい。そう思ったんです。

自由大学の教室にて。講師を担当する「DIYミュージック」の授業は1期あたり生徒は10人ほど。卒業後も交流を持って、コミュニケーションの場を広げている


自由大学の教室にて。講師を担当する「DIYミュージック」の授業は1期あたり生徒は10人ほど。卒業後も交流を持って、コミュニケーションの場を広げている

今、取材活動と並行して参加している「自由大学」もその一環で、近年は「DIYミュージック」という講義のキュレーターを担当しています。ミュージシャンの方が教授として参加し、受講生と一緒にゼロから音楽を作るという授業なのですが、外に出て、風や鳥の声を録音してきてそれを音と混ぜ合わせるとか、本当に自由な考え方に基づいて、好きなように音楽を作っていきます。

受講生はミュージシャンを目指しているというよりは、「自分で音楽を作ってみたいな」という素朴な興味を持った方がほとんど。それでも、実際に自分で体や手を動かしてみると、見えるものも感じるポイントもがらりと変わるんですよね。そういう視点の変化を感じてもらいたくて。

私が震災後の東北で感じた大きな気づきもまた「やってみる」ということの大切さでした。あの頃の被災地では、市井の人々の多くが「小さいことかもしれないけど、やってみよう」という気持ちで動いていました。

そういう人たちがいたからこそ、行政主導の大きな事業だけでなく、地元の人が実感を持って展開する活動もたくさん生まれたんだと思います。そんな風に、誰もがプレイヤーになれるような社会を作るお手伝いが自分にもできたら。「自由大学」での講義にはそんな気持ちを込めています。

「自由大学」は表参道の一角に小さな校舎を構えていますが、どんな講義にせよ、ここに興味を持ってきてくださる方の多くは、何かしらの転換期にあったり、自分で何かを始めたいと思っている人です。 

◎仕事の必需品「手首や首筋にさっとつけられるロールオンタイプのフレグランス。立て続けに人に会って話したり取材することが多いので、気持ちの切り替えのために香りの助けを借りています。スパイシーな香りで元気が出ます」


◎仕事の必需品「手首や首筋にさっとつけられるロールオンタイプのフレグランス。立て続けに人に会って話したり取材することが多いので、気持ちの切り替えのために香りの助けを借りています。スパイシーな香りで元気が出ます」

例えば地元に帰ってゲストハウスを開きたいとか、本屋を始めたいとか。業態は違っても、みなさん自分の活動を通して、何かしらを発信したいと考えているんだと思います。

そういう方々をどんどんつなげて、全国にネットワークを広げていくというのも今後の目標で、自分の役割なのかなと感じています。もちろん私自身の取材活動もありますから、全て同時進行になりますが(笑)。

これからは個人の発信力がより影響力を持ってくる社会になるのかなと思います。情報が多様化して、きっともっと面白くなる。だからこそ「発信してみよう」と思う人をどんどん応援したいですし、より質のたかい表現をするにはどうしたらいいかなど、メディアに携わる人間として助言したり、新しい形を探っていけたらとも思っています。

個人的な目標はまだ具体的なことはわかりませんが、自分を必要としてくれる場があれば、いつでもどこへでも飛んでいけるような身軽さを常に持っていたいと思っています。自分が媒体となって、情報やメッセージを広く伝えていくこと。そんな風に働いていけたらいいなと考えています。

ともあれ、ベースとしての東京は今のところ離れることはできません。日々あらゆる人に出会って、新しい考え方に触れられる都市というのは、やっぱり日本では東京以外にないと思っているので。

もちろん自分が生活する場でもありますから、まずはこの街の変化を“自分ごと”として捉えて、ここから未来に向けたメッセージを、たくさんの人と一緒に発信していきたいですね。

http://www.thefuturetimes.jp/

PROFILE

  • 小林百合子

    編集者
    1980年兵庫県生まれ。出版社勤務を経て独立。山岳や自然、動物、旅などにまつわる雑誌、書籍の編集を多く手がける。女性クリエイター8人から成る山登りと本づくりユニット〈ホシガラス山岳会〉発起人。著書に『最高の山ごはん』(パイ・インターナショナル)、『いきもの人生相談室』(山と溪谷社)、野川かさねとの共著に『山と山小屋』(平凡社)など。

  • 野川かさね(写真)

    写真家
    1977年神奈川県生まれ。山や自然の写真を中心に作品を発表する。クリエイティブユニット〈kvina〉、自然・アウトドアをテーマにした出版・イベントユニット〈noyama〉の一員としても活動する。作品集に『Above Below』(Gottlund Verlag)『with THE MOUNTAIN』(wood/water records)、著書に『山と写真』(実業之日本社)など。
    http://kasanenogawa.net/

映像ディレクター:菅井亜希子さん(42歳)

トップへ戻る

ヨガインストラクター:河野紗世さん(32歳)

RECOMMENDおすすめの記事