東京の台所

<173>巣鴨よ、その街の懐で彼女の悲しみを癒やせ

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〈住人プロフィール〉
会社員(女性)・34歳
賃貸マンション・1DK・JR山手線 巣鴨駅(豊島区)
築年数33年・入居8年・ひとり暮らし

    ◇

コーヒーと父

 34歳の女性ひとり暮らしにしては、なかなか渋い街に住むなと思いながら、巣鴨駅に降り立つ。観光客や地元の買い物客が行き交うとげぬき地蔵のある商店街の先に彼女のマンションはあった。
 玄関扉を開けると大きな窓と台所が。蛇腹のホースの付いた旧式の湯沸かし器はもちろん現役だ。
「角部屋で2面に窓があり、明るさと風通しの良さに惹(ひ)かれました。台所の窓から、商店街がよく見えるんですよ。週末に1週間分の作り置きをしながら、窓から人の流れを見るのが好きで。テレビインタビューしていたり、4のつく日は露店が出てさらににぎやかです。夕方は、巣鴨のキャラクターの“すがもん”が、台車に載って引かれていくんですよ。それがまたかわいいのです」

 曽祖母が使っていた箪笥(たんす)、アルミのハンドル式コーヒーミル、自分で金接ぎしたカップ。学生時代から器や古道具が好きで、台所には、あちこちで買い集めたそれらが首尾よく並ぶ。
 年齢より、趣味やしつらいがやや落ち着いてみえる。美大で建築を学んだというが、影響は大学より断然父親らしい。

「帰省するたび、お酒を飲めない父と夜遅くまでコーヒーを飲みながら2人で話しこんでいました。父は骨董(こっとう)とコーヒーと本が好きで、機械音痴。母はいつも、物が増えて困ると嘆くほど。家族で旅行すると必ず、骨董屋さんに寄るんです。このお茶わんも、4年前、京都の骨董屋さんで父に買ってもらったものです。あ、この古いコーヒーミルは、父がネットで探してくれました」

 ご飯茶わんには白地に呉須(ごす)で蝶々が2匹描かれている。母に「お父さん、あなたに結婚してほしいと思ってこの柄選んだんじゃない?」と、言われてはっとした。
 本当にそうだったのかはもう聞けない。今年正月、10年あまりの闘病の末に他界したからだ。

 父は聞き上手で、気の優しい人だった。彼女はふたり姉妹で、家族は女3人に男ひとり。おみやげのケーキはいつも、父が一番小さいものを選ぶ。社会人になり、帰省の折に初めて豚しゃぶサラダを作ると「豚肉ってこんなに柔らかいんだね」と褒めちぎられた。
 普段は娘に甘いが、幼いときから、朝食後のコーヒーを淹(い)れるのは父の担当で、子どもがミルで豆を挽(ひ)こうとするときだけは厳しかった。
「それはだめだよ。挽き具合が大事だからね」
 途中まではやらせても、必ず最後はとりあげた。決めは自分、ということなのでしょう、それをクリープとお砂糖をいっぱい入れて飲むのが好きだったんですよね、と彼女は半分泣きだしそうな顔でつぶやく。
 一緒に暮らした場所でもないのに、この台所のあちこちに父の優しさが張り付いている。

私と生卵

 昨年12月。危篤に陥ったものの、回復して自宅に戻った父の70歳の誕生日を近所の和食屋で祝った。湯葉や豆腐に少し手をつける程度であまり食べられなかったが、花束を渡すとか細い声でおだやかにほほ笑みながらこう言った。
「この家族でよかった。幸せな人生を送れたよ」
 会話は多いが、感情をストレートに言う家族ではない。初めての真っすぐな父の言葉に、姉が精いっぱい明るい声でまぜっかえす。
「何言ってるのお父さん。あと10年は生きるんだから!」
 それが最後の家族全員の食事になった。

 父が逝って10カ月。
 自分の気持ちも少し変わってきたという。
「最初は日常的に何を見ても思い出してしまうし、勝手に涙が出て困りました。今は、日常生活では思い出さないでいられるようになりました。でも、台所で卵かけごはんをつくるふとした瞬間などに、父のことを思い出すと、こらえきれなくなります」

 慎重な母は、ふだん生卵を食卓に出さず、新鮮な卵が手に入ったときだけ卵かけご飯を許可する。それが好きな父は、新鮮な卵があるとわかると「じゃあ卵かけご飯をやろう!」と、子どものように喜んだ。

「思い返そうとすると思い出せないのに、卵かけごはんを作ると鮮明に蘇(よみがえ)る。父から金継ぎを頼まれたティーカップも、コーヒーミルもみんなそうです。豆を挽くときや淹れるとき、お鍋の残りで雑炊を作ろうかと思った時、料理をどの器に盛り付けようかと父からもらった器が目に留まった時、涙が止まらなくなってしまいます。父と雑誌を眺めながら、その器にはどんな料理が似合うかと、よくおしゃべりしていたので」

 居心地のいい明るいマンションは、「結婚するかもしれないから、次は更新しないでおこうと思うのに、いつも更新するハメになっちゃうんです」と照れくさそうに笑った。よかった。悲しみや喜びをシェアするお相手を探すつもりがあると聞いて、少しほっとした。父の願いも、蝶々柄の茶わんにきっとこめられているはずだ。彼女の心の奥には、父の忘れられないこんな言葉もある。
「一人でも生きていけるけれど、一緒に誰かいるって、いいもんだよ。病気をするとそれがよくわかる」

 ちょうど取材日で、入居が丸8年になるとのこと。
「巣鴨って意外にファミリーや学生も多いんですよ。昼間はにぎやかで楽しくて夜は静かなんです。染井霊園や六義園など、緑も多くて散歩にもいい。薬局や小売店も充実していて実は住みやすいんです。巣鴨、初めてですか? でしたら、帰りに美味しいあんぱん屋さんもあるから、ぜひ商店街に寄ってみてください」

 勧められるままに商店街を歩く。
 親子でやっている傘屋で傘を広げてあれこれ教えてもらいながら1本を買い、試食のじゃこを手のひらに載せられ、元気の出そうな赤いパンツを眺め、とげぬき地蔵尊をお参りする。これが祭りでもなく平日とは、なんとにぎやかなことか。
 はかりしれない圧倒的な喪失を、他人が埋めることはできないが、この街なら悲しみに暮れる夕方を、台車に運ばれるすがもんが、あるいは会話なしに買い物ができない下町の事情が、少しだけ薄めてくれるのではあるまいか。
 私は行き交う人々の背中を見ながらそっと願う。巣鴨よ、その街の懐の深さで、彼女の悲しみを包み、癒やし給え。

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PROFILE

大平一枝

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。
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