朝川渡る

朝川渡る 「蛍の時間」第1話 バック・ライト

朝川渡る 「蛍の時間」第1話 バック・ライト

連載短編小説「朝川渡る」3人めの物語、「蛍の時間」を、4話にわたってお送りします。

人言(ひとごと)をしげみ言痛(こちた)みおのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る

万葉集 但馬皇女(たじまのひめみこ)の歌

万葉集から、但馬皇女の歌です。天武天皇の皇子と皇女で異母きょうだいである穂積皇子と但馬皇女が恋に落ち、人々のうわさになっているさなかに詠まれたとされるもので、ひと夜をともに過ごした後、人目につかないよう、朝の川を渡って帰る様子をうたったとも、あるいは何を言われても自分は恋の障害の象徴である「川」を渡ります、という強い気持ちをうたったものともいわれています。

翻って今、メディアでは、様々な形の恋愛がときにバッシングの対象として話題にされています。しかし、向けられた言葉の間からこぼれおちている何かがあるかもしれない……。そのような視座から、この連載短編小説「朝川渡る」の企画は始まりました。

1300年前と同じように、いま、朝、川を渡るような思いで恋を紡いでいるすべての人に。作家の央橙々(おう・だいだい)さんが、日常の中の小さな「朝川」の物語を紡ぎ、写真家・井上佐由紀さんの写真と一緒にお届けします。皆さまのご感想、そして皆さまの「朝川」体験も、ぜひお聞かせください
    ◇

第1話 バック・ライト

 呼吸が浅くなるのを感じながら、指先をつんのめさせるようにして彼女が「ごめんね」を打とうとしたとき、LINEがもう1通きた。
『再来週はお好み焼きに行こうか。この前、おいしいとこ見つけたんだ』
 話題をガラリと変えた。鮮やかなKの機転に、ふぅぅぅっという、やわらかい深い息が漏れる。
 たぶん数秒。

 フジロックの出演者の話から、ミチカって僕と干支、同じでしょ?(笑)と不意をつかれた。ひと回り上だなんて、まずい。8歳上と騙していたのは、もっとまずい。必死でその頃流行った曲やファッションを覚えたのもばれているなんて、恥ずかしすぎる。

 ぐるぐる考えて、嘘を詫びる4文字を返信しようとした瞬間、彼は話題を変換したのだった。それは、水に流そうというメッセージでもある。彼らしい赦し方に、心がほどけた。
『行きたい! 粉物大好き!』

 横で寝返りを打つ夫に、心臓がどきんと波打つ。掛け布団の厚みに隠れ、手のひらで覆った携帯電話の青白いバックライトを頼りに、Kの返信を、息を殺して待つ。もし、胸のときめきが振動を発するなら、確実にシーツを通して夫に伝わっているだろう。

 一日の終わり、通子(みちこ)の一番楽しみな時間がこの小さな箱には詰まっている。Kとの10分程のLINEのやり取りは、彼女にとっては美容サプリのようなものだ。あるのとないのとで、翌朝の肌の調子が変わるような気さえする。ざらついたり、すり減った一日分の細胞をあっというまに修復できる。久しぶりの立ち業務で、パンパンに張ったふくらはぎの鈍痛も遠のくようだ。
 
 その日は処方箋薬局で、1日窓口業務だった。安心、安全、清潔を売りにしている女4人の小さな薬局。おおむね3人で業務を回す。週に2度回ってくる窓口業務が、このところひどく苦痛になっている。白い壁に白衣で7時間。昼休憩のトイレの鏡にぎょっとした。化粧はまだらに崩れ、髪と肌がぱさつきカラカラの女がそこにいた。夕方はもっと残酷で、白い世界に艶のない髪やくすんだ肌が際立つ。
 大学生の息子がいる局長が絶対に午後の窓口シフトに入らないのは、きっと白い世界のせいだ。人と話すのが苦手、数字と化学が好きだったから薬学を仕事にしたのに、実際はたくさんの目にさらされて愛敬を振りまかねばならない業務がついてくる。
 愚痴というほどでもない。あらがうこともバカバカしいほどのこんな些細なことで働く意欲を失いかけている自分がただやるせない。
 
 家電量販店で奇妙なナンパをしてきたKに、年齢をひた隠しにしてきた自分のあさましさも鬱陶しかった。
 体を合わせたとき、流れでしかたなく答えた。「8歳上よ」。偽りの数字は、Kが年上好きと知ってからあらかじめ用意していたものだ。

 真実がわかったとき、彼は謝るすきを与えず、次のデートの話に切り替えた。その気遣いがしみた。こういうところが好きなのだ。Kはいつも、その若さに不釣り合いなほど、他人に対して上質な配慮や忖度(そんたく)ができる。

 この前、通りすがりに入った和食屋でもそうだった。新米のバイトと覚しき女性店員に、厨房の店主がやや苛ついている空気が、カウンター越しに伝わっていた。あどけなさが残る店員は学生だろうか。声が小さく、自信なさげでいかにもこの仕事には向いてなさそうである。案の上、「いくらおろしをください」を「いくらおろしふたつください」と聞き間違えてふたつ持ってきた。あ、と私が訂正するより早く、彼は「ありがとう」と微笑みながら受け取った。
 じっと横顔を凝視する通子に気づくと、彼は照れたように言った。
「俺のこと、今、惚れ直してるっしょ」
「うん、ちょっとね。加点1」
「1点かよっ。でも違うから。ミチカの隣にいると、自分でも信じられないくらいほっとするし、リラックスできるの。人類みな兄弟みたいに、平和な気持ちで、人にも優しくできる。イッツ・ミッチーズ・マジック。いつもは俺、もっと腹黒いでーす」

 そのへんの女の子より長いのではと思わせるまつげが添えられた、黒々とした大きな瞳を前に向けたまま、ジョッキを煽り、混ぜっ返す。あのときは、他に誰も客がいないことが悔しかった。この素敵な目をした、優しい気遣いのできる男は私のものなのと、世界の真ん中で宣言したかったからだ。それだけではない。彼のほうが手取りは少ないはずなのに、通子が席を立った隙に会計を済ませとうとする気遣いも、オーダーが終わり店員が離れるとすばやく片手で腰を抱き寄せ、誰にもわからないように髪にするキスも私のものなんです。

 せっかく通子のいぬ間にすませようとした会計はしかし、例のバイト店員によって、時間がかかった。帰り支度をしてレジまで行くと、店員は機械的に彼に尋ねた。
「ご一緒ですか」
 ベテランの店員なら絶対発しないだろう。
「か」が終わる前に彼は答えた。「一緒です」。支払って財布をしまうと、目を伏せている通子の右手に、自分の指を滑り込ませた。人前でそうされたのは初めてなのであわてて外そうとするが、彼は指にさらにぎゅっと力を入れた。

 ぬくもりを手に感じながら店を出ると、通子はたまらずつぶやいた。
「カップルに見えないのかあ。割り勘って……」
「バイトの子、マニュアル通りに言ってるだけだよ。今頃、板さんに怒られてるよ」
「私達釣り合ってないんだね。きっと姉と弟ぐらいにしか見えないんだろうな」
 その瞬間、Kは手をほどき、左手を彼女の腰に回してぐいと強い力で引き寄せ、言った。
「俺たち、恋人に見えるに決まってるじゃん」

 あのぶれない優しさが、たった今も、デジタルの文字にのって自分に注がれている。
 ひどくさりげないやり方で、通子の価値は年齢ではないと伝えている。

 スマホ画面でひとしきり他愛もない言葉が往復した最後、彼女はさっきしまいかけた4文字をとりだし、心をこめて送った。
『あのときのフジロック、私、バリバリ社会人だったの。嘘ついてて、ごめんね』
『いーなー。伝説の回じゃん。今度、詳しくその話聞かせて。ね? 丑年のミチカちゃん(笑)』
 こんな優しいカッコ笑いがあるだろうか。通子は液晶画面にキスしたくなる。詳しくって、どこで?
 通子はうさぎが頭を深く下げるごめんなさいのポーズをしたスタンプを押す。すぐに返信が来た。
『いくつだろうが、ミチカはミチカ。そのままでいいんだよ。おやすみ』

 夫に気付かれぬよう、そっとサイドテーブルにスマホを伏せて置く。さっきまでかりそめの愛を運んでいたスマホは、今にも闇に消え入りそうな弱々しい光でいる。彼女は高ぶった心を冷ましながら、それを蛍のようだなと思った。ベッドルームで光ったり消えたりする私の青い蛍。

 通子は、目の奥に心地よい熱さを感じながら瞳を閉じた。ところがまぶたの裏でうねうねと蠢(うごめ)く光の残像のなかに、中ぶらりんの問いかけが浮かびは消え、消えては浮かんでいる。たったいま味わった幸福とは裏腹な感情に戸惑った。
 この付き合いは、一つ安心したら次の不安が生まれる。消しても消しても、ぶくぶく発酵する小さな泡のように、浮いてくるのだ。
──お好み焼きの店は、妻から教えてもらったのだろうか。
 
 「絶対」や「永遠」がないから、どんなに甘い言葉をもらっても、不安がいつも隣に居座る。踏んではいけない地雷もたくさんある。相手の家族、自分の家族、将来のこと、老後の話はしない。必死で避けて通っているつもりでも、地雷を踏みかけては小さな嵐の連続で、凪はほんのつかのまだ。
 今日だって、嵐になりかけた。Kのおかげで回避できたことに通子は心底安堵した。
 だからもう、小さな地雷は忘れよう。1カ月のほとんどは会えないのに、会える時間に猜疑心をぶつけあっていたらもったいない。消えろ消えろ、瞼の裏のオレンジ。

 世界中の誰も知らない、ふたりだけの蛍の時間は大きな安らぎと小さな不安でできている。デジタルの文字によって醸成されたもの。それを絆などという言葉にしたら引き返せなくなる。つながり、くらいがちょうどいい。

 通子は、目覚めてから、眠りに落ちるその瞬間まで、Kのことを考えている自分のことを、時々疎ましく感じている。離れたところにいる男とのつながりを始終考えながら暮らすのは楽しくて、少し苦しい。

第2話に続く

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PROFILE

  • 央橙々

    小説『セカンド・ラッシュ』(『サンキュ!』ベネッセコーポレーション)にて作家デビュー。

  • 井上佐由紀(写真)

    1974年福岡県柳川市出身。東京都在住。写真家。九州産業大学芸術学部卒業。写真スタジオ、アシスタントを経て独立。現在はライフワークとして生まれたばかりの赤子の目を撮影しています。うどんとコーヒーがすき。
    コレクション:フランス国立図書館、サンフランシスコ近代美術館
    http://inouesayuki.com/ph/

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