朝川渡る

朝川渡る 「蛍の時間」第2話 劇薬とキッチン

朝川渡る 「蛍の時間」第2話 劇薬とキッチン

>>第1話 バック・ライト から続く

 細長い指で巧みに携帯電話の画面を操るK。初めて会ったとき、その器用で美しい指と、視線を落とし、うつむき加減でいるときの彼の目もとに通子は惹かれた。伏し目でも、まつげ越しに、くっきりとした二重と大きな澄んだ瞳の輝きがわかる。
 だが、鉄板を挟んで向こうに座っている今日のKは珍しく、黒縁のメガネをかけているので少々惜しい。きらきらは、レンズ越しだと3割減になってしまう。

 家電量販店で初めて出会った日は、メガネをかけていなかった。
 ポップに書かれたスペックの9割が外国語のように見え、10分で疲弊しきっていた一眼レフ売り場で、「料理を撮りたいのですが」と尋ねた店員が彼だった。濡れた黒曜石のような瞳をまっすぐこちらに向け、嫌味のないビジネススマイルで、「インスタ用でしょうか? 寄り引きや、こんな感じの写真にしたいというイメージのご希望はありますか?」と聞き返された。

 通子は、アイフォンを取りだし、カメラロールに保存した自分の料理写真を見せた。すると彼が声を漏らした。
「おいしそうだなあ!」
 親しみ深く、ひどく自然で素直なつぶやきに、虚をつかれた。「いいね」や、「おいしそう!」の文字は画面からあふれるほどもらうが、これほど朗らかな響きを持つ生の言葉をかけられたのは久しぶりだ。

 1時間近く相談に付き合ってもらい、会計をする頃にはその場を離れるのが惜しくなっていた。
「ここに並んでお待ち下さい。お買い上げありがとうございました」と、Kは注文用紙を手渡し、一礼をして躊躇なく去った。なんだ、会計と売り場担当は違うのか、と肩透かしを食らう。これで終わりか。急に店内の音楽や喧騒が大きくなる。
 レジを済ませ、財布にレシートをしまおうとしたときどこからともなく彼は現れ、「お客様、保証書のレシートを確認させていただけますか」と言う。美しい笑顔が目の前にあって、再び店の音楽が聴こえなくなった。Kは慣れたしぐさで、レシートの隅に豆粒のようなアルファベットの文字を書き込み、手渡した。声を出さず、口元だけ動かす。
「LINEのIDです」
 よかったら、の言葉だけ発する。え、と固まっていると、言葉を足した。「カメラの操作なんかでわからないことがあったら、いつでも連絡ください」
 あ、ああ操作か。そうよね、操作。ありがとうございますとお礼を言い、中途半端な気持ちのまま、エスカレーターを降りる。LINEというツールのオフィシャル性が、通子にはわからなかった。自分の世代は仕事で使わないが、若そうに見える彼は、こうやって普通に、どんなお客にもIDを渡すのかしら。

 その晩、リモートシャッターの接続のしかたがわからず、さんざんためらった23時半過ぎ、KにLINEをした。買い物の恥もかき捨てだと自らを奮い立たせた。「おいしそうだなあ」と少年のように目を輝かせた彼の本意を知りたい。できれば、店頭で誰にでもそのような行為をするわけではないという自分の出した結論が正解であって欲しい。
 送信して深呼吸をし、トイレから戻るともう返事は来ていた。
「メールありがとうございます。僕で良ければいくらでもお教えします。またお会いしたいです。だからIDをお渡ししました。」

 腕枕をした左の指先で彼女の耳たぶをつまみながら、Kは口を尖らせたものだ。
「だってミチカ、かわいかったんだもん。ブルートゥースさえちんぷんかんぷんだし。それが薬剤師っていうから、よけいに萌えーだよ」
 2度めに肌を合わせ、通子という古臭い名前が嫌だと言うと、「どうして?僕は好きだけどなあ」と、同じように腕枕の耳元で口を尖らせた。子どもの頃、ミチカっていう名前だったらどんなによかったろうってずっと憧れてたの。だからミチカって呼んで?
「僕は素敵な名前だと思うんだけどなあ。……うん、いいよ。わかった」
 以来、素直にミチカと呼んでいる。

 好き、素敵、かわいい。
 30代前半の男はみんな普通に言うのだろうか。45歳の自分に、恥ずかしいくらい直線的なそれらの言葉がどれほどわかりやすい破壊力を持っているか、女性慣れしたKにはきっと折り込み済みなんだろう。仕事場であんなにスマートに臆さず客にナンパするくらいだから。

 ビールのジョッキを飲みながら、鉄板の上の生地と格闘するKに話しかける。
「ねえ、あのときレジでさ、」
「またその話? いつもああやって声かけてるのかって聞きたいんでしょ。かけてないってー」
「うそ」
「たまにしか。なんてね、うそうそ」
 通子が頬を膨らませて拗ねる仕草をするまでのこのくだりまではルーティンだ。重いことを言って嫌われたくない。想定外ではあるが、結婚後初めて手に入れた、誰かに大事に扱われるこの甘い場所を手放したくもない。
 彼は汗をかきかき、へらで丸い生地を押しつぶしている。まるで男の子が工作に熱中しているみたいに無邪気で、楽しそうだ。
 こんな話はもうよそう。その笑顔を。今、一緒にいるこの時を。2週間も前から、夫に小さな嘘を重ねてやっと生み出したこの時間を、楽しみきろうと腹を決めた。先なんてあるかどうかもわからないのだから、せめてこの時間だけは無粋な質問などやめて、めいっぱい笑っていたい。

 オーダーもとりわけも、Kと一緒にいると任せきりでよかった。そっち油飛んでない? お水もらおっかと、よく気が回る。一つ一つ、しっかりオチを付けるトークも楽だ。通子は笑っているだけでよい。そうするだけで、本当に嬉しそうに次のおもしろ話を始める。小学生のとき、隣の席の男子が友達に話すのを聞いていたら、おかしかったので笑った。すると男子は通子を横目でチラチラ見ながら、今度はもっと面白い話を勢いつけて全力で話した。オチの99%は自分に向けられていることがよくわかった。通子とアイツは両思い、と噂になったのはまもなくのことだ。あのときと同じ。私が喜ぶことで、彼が喜んでいる。もっと面白い話をと、はりきる。大人の日常で、自分は笑うだけでいい場所などない。空気を読んで会話をつみあげていくのが得意でない通子にとって、それはたまらなく安らかな世界だ。

 工業高校でバンドを組んでいた話。年上のヤンキー女子に振られた話。田舎から出てきてまもないころ、渋谷駅のハチ公口から新南口までタクシーに乗った話。通子がフジロックでミッシェル・ガン・エレファントを見たとき、まだ僕は中学生だよ、あ小学生かなと言う軽口さえ。
 なんでもない一瞬から生まれる自分でも恥ずかしいほどの高揚感は、Kに会うまで自分の生活から一番遠いところにあった。
 短いLINEのひとことや行間に潜んだ裏の裏までくみとろうと、ためつすがめつする。既読になる・ならないで、子どものように不安になったり、小躍りする。
 メッセージが届くたびに、今日が昨日と違う一日になり、体も心も上書き更新される。音信不通になりがちな日曜の夕方、「今日は何してたの?」というメールひとつで、連絡のなかった土曜日のもやもやしたきりが晴れる。自分が何をしていたか、知りたいと思ってくれる人がこの世に一人いる。そう思うだけで爪の先まで、女としての細胞が活性化される。気にされる自分をもっときれいに磨きたくなる。

「うん、いいよ」「わかった」
 デートでもメールでも、幾度となく使う全肯定の言葉に、会えない時間の寂しさが相殺されてゆく。
 結婚すると、無条件で肯定される機会は猛スピードで目減りする。結婚まもないある日曜の朝、通子が気分良くかけていたゴスペルを「替えていい?」と、夫に言われたことがある。恋人時代はなにもいわなかったCDを、夫は彼女がいいよと答える前にクラシックにかけ替えた。ローリエを入れたシチューも、泡立たないエコの食器洗剤もやんわり抵抗された。結婚は、互いのエゴをどれだけ受け入れられるか試される日々でもある。

 だから、肯定の言葉は麻薬だ。いや、劇薬と言ってもいい。
『今日ね、ミチカのこと考えてた。ずっと化学と数字が好きで、そこにひたっていたい。でも研究室にこもるんじゃなくて、自分の好きなもので人を助けられるなんて、すごいハッピーだって言ったでしょ。なんて素敵なんだろうって思った。僕は電気いじりが好きだけど、売る仕事は向いてないと時々思うから』
『実際しんどいことも多いよ~』
『そうだろうね。でも僕がお客さんなら、窓口でミチカのいつもの笑顔でお大事にって言われたら、めちゃくちゃ嬉しいし安らぐ。ミチカ、それ天職だね』
 
 いい人に見られたい、優しいと思われたい、気を引きたい、惑わせたい。大人の男女の会話には些細な計算が絡んでいる事が多い。だが、Kの言葉は、計算がなく限りなく無垢に見える。
 企みがない代わりに、前の婚外恋愛の相手のLINEやら写真も平気で見せてくる無神経さに閉口しないといえば嘘になるが、ぎりぎり無邪気だなと苦笑できる自分に、少々驚いている。彼に会うまでもっと了見が狭くて、自分に自信がないからつねに肩に力が入っていた。
 彼と付き合っていると、変化する自分への発見が多い。

 食事が終わってしまうのが寂しくて、彼のチューハイのグラスが3分の1くらいになると、すかさずおかわりを呼ぶのが、デート時の通子のならいだ。
「まだあるよ」と制するKの言葉が聞こえぬふりをして「はい、次は私が作りまーす。どっちがおいしいか勝負だよ」と、ヘラを両手にとり、鉄板に向かって背筋を伸ばす。

 通子は、その瞬間、不意に新しい小さな喜びに包まれた。初めて彼に料理を作ってあげられる。この鉄板は、私のキッチン。小さな四角い板に、喜びを見出すなんて、着てはもらえぬセーターを編む昭和の女みたいだ、まるでままごとだと思った。こんな小さなキッチンを楽しんでいる自分がおかしい。だが、なにをどうしたって、やっぱり嬉しいのだ。

 店で用意された生地とキャベツをぐりぐりと混ぜ合わせ、「これは隠し味」と醤油を少し足した。そうするのが旨いかどうか実は知らないが、どうしても“自分の味”にしたかった。
 しかし、甘い感情は、お好み焼き1枚半までしか続かなかった。メガネを外し、汗を拭くKの目元に、青い痣(あざ)を見つけたからだ。
 うっすらと横長の青痣に息を呑む。まただ。この前、肩下の青みがなくなったばかりなのに。

第3話に続く

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PROFILE

  • 央橙々

    小説『セカンド・ラッシュ』(『サンキュ!』ベネッセコーポレーション)にて作家デビュー。

  • 井上佐由紀(写真)

    1974年福岡県柳川市出身。東京都在住。写真家。九州産業大学芸術学部卒業。写真スタジオ、アシスタントを経て独立。現在はライフワークとして生まれたばかりの赤子の目を撮影しています。うどんとコーヒーがすき。
    コレクション:フランス国立図書館、サンフランシスコ近代美術館
    http://inouesayuki.com/ph/

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