朝川渡る

朝川渡る 「蛍の時間」第3話 逃げない人

 
 >>第2話 劇薬とキッチン から続く

 まるで座っている丸椅子が床に沈んでゆくようだ。
「K、ここ」
 自分の目に人差し指をあて問いかける通子に、彼は困ったような顔で笑った。瞳の奥が翳ってゆく。じゅうううとお好み焼きが焼ける音だけが二人の間に響く。
「……うん、ちょっと転んだ。なんつって、ミチカには通じないよね」
「会社? 飲み屋? 誰かと喧嘩した? 殴られたみたいな跡だよ」
「答えなくちゃいけない?」
 その答えで、本当は十分だった。
 まだ背中にあの傷はあるのだろうか。
 先月、ホテルのベッドで、ヘアピンのような尖ったものによる10センチくらいのひっかき傷を見つけた。いびつに貼られた絆創膏から、それがはみ出していたのだ。よく見ると、えぐれは不規則な点線になっていたから、直接引っ掻いたものではないだろう。布の上から、つまり下着かシャツの上からついた傷だ。マンションの踊り場が改装中で、ビスにひっかかったと、信じるには難しい理由を言った。ある疑念が湧いたが、その先は怖くて聞けなかった。彼ではなく、自分のために聞かなかったのである。

 ミチカはヘラを皿の上に置くと、火を消し、意を決して尋ねた。
「奥さんだよね。私のせい?」
「ミチカはバレてない。言われたとおりLINEも毎日消してるから。元カノだよ」
 もう一度椅子がずん、と床にめり込む。鼓動が早まり、お好み焼きの匂いも周囲の客の話し声も遠のく。
「うそ」
「うそじゃないよ。付き合ってるのミチカだけだもん」
「……なんで殴られたの?」
「グー」
“なんで”の意味を取り違えたのは意図的か否か。通子は語気を強める。
「病院に行ったほうがいいよ。それ、DVじゃん」
「大丈夫だよ、これくらい」

 乾いていくお好み焼きを一瞥したあと、視線を彼に戻し、お願い、なにがあったか詳しく教えてと頼んだ。限りなく強制に近い懇願だ。
 過去の婚外恋愛の相手は、ひとりふたりではないだろう。既婚か未婚か。いつの出来事なのか。聞きたいことは山ほどある。だが、今はそれを問いただすときではない。夫婦のことなど、誰も本当のところは話せない。数年来のセックスレスで、親友だが恋人に戻れない通子も、自分のことさえ本当のところはわからないのだから。

 彼の夫婦関係についても、意図して一度も聞かなかった。知ってもなにも生まれない。だが、今、彼に起きている現実は流すことができない。交際10カ月。耳を塞げばすむ時期は過ぎたと、青痣が告げている。なぜ大丈夫なんて言うのか。自分はこれほど心配しているのに、彼にとっては自分は逃避の場でしかないのか。

 刺すような視線に根負けしたように、Kはポツポツと話し始めた。
 妻は、もともと感情の起伏が激しいところがあるんだ。なにか逆鱗に触れると、その間はずっと僕の食事はシリアルバーだけになる。帰っても風呂の栓が抜かれてるし、テレビやエアコンのリモコンも隠される。ずっとイライラして、口も聞かない。もう慣れたけどね。娘が小学校に上がって週3回事務のパートを始めた去年の夏から、もっと怒りの感情をコントロールできなくなった。娘には手が出ていないけれど、何するかわからないところがある。結婚前に、2度転職をしているのもそのせいかもしれない。一度気にしだしたら、しつこくこだわる癖とも関係しているんだろうな。

「で、元カノの何がバレたの?」
「んー……」
「Kがこんなに傷ついているのに、見過ごせると思う? 売り場であんなに慣れた感じでナンパするんだもん。過去に婚外の相手が何人かいるのは承知の上だよ。何言われても、私は怒らないから」
 わざと、「私は」を強調した。

 ん、と言いながら、Kは冷めたお好み焼きをヘラで器用に切れ目を入れ、皿に取り分けながらするりと言った。この空気でお好み焼きを食べられるのか。
「寝言で元カノの名を呼んだらしい。嫁は寝ている僕の腹を蹴った。僕が飛び上がると、今度はいきなり顔に殴りかかってきたんだ。鬼みたいな形相で、ぶっ壊す、Kちゃんをぶっ壊すってわめくんだよ。息ができなくて、死ぬかと思ったよ」

 娘に気づかれたくない一心で、殴られっぱなしになった。それが結局その場を収める一番の近道だとわかっているからさと、力なく笑う。湯気が消えた鉄板のむこうに見える彼の目は虚ろで、初めて見る顔だった。
 頭上からざばんとバケツの水をかけられた気がした。
 鈍い。鈍感すぎる。
 やられっぱなしなこと。そこまで守ろうとする存在がありながら、自分との関係を続けること。彼が彼自身を大事にしないこと。めんどうくさいことに対して向き合おうとしないこと。命の危機にさらされているかもしれない状況を正しく判断しない鈍さ。寝言に出るほど最近まで、前の恋人がいたこと。

 けれども、最大の怒りが、同情でも妻へのそれでもなく、「Kちゃん」という妻からの呼び名を無邪気に言う感性であると気づいたとき、通子は自分のみみっちさにぞっとした。会えるのは月に2度の数時間。あとの28日間、毎晩わずかな蛍の時間を積み重ねてやっと紡いだこの関係性に、リアルな事情など流れ込んでほしくない。知りたくなかった。
 混乱する頭が冷えるのを待ちながら、ふと思い出した。
 ──この感情は、以前にも味わったことがある。

 杭に引っ掛けたという言い訳を聞き流した翌月、ベッドで、はみ出た背中の傷に手持ちの絆創膏を貼りながら、たまらなく惨めな気持ちになっていった。あれは、妻に暴行を受けても反抗しない男を愛している自分に嫌気がさしたのだと思っていた。
 ひとまわり上とわかっていながらすべてを受容し、嘘を優しく流してくれたこの男と、もう少しだけありもしない明日の夢を話していたい。好きな味噌汁の具も、どんなパジャマを着ているかも知らないのに。普段のあなたの何一つわからなくても、今、彼の背中の傷に絆創膏を貼っているのに。のに、のに、のに。
 自分は、妻との暮らしを想像させる傷を平気で見せる彼の無防備な素直さ、この男は私のものと傷を通して伝言する妻の意図に気づかぬ彼の鈍感さに、傷ついていたのだ。

 気を取り直したように、冷え始めたお好み焼きのかけらを口に運びながらKが言う。
「ミチカ。食べようよ。こんな話をしてごめんね。ミチカとの時間って僕にとって非日常なんだ。一緒にいるとずっと楽しくて、逢えないあとの28日間は、その余韻をおかずにご飯を食べてる感じ。だからさ、ね、笑って?」
「笑えないよ。よく食べられるよね。砂の味がしそう」
「僕なんか、ミチカがいない食事はいつも砂の味だよ。だから家では、ミチカとの時間を思い出しながら、ご飯を食べるんだ。で、楽しかった気持ちは夜のラインで何度でも再生できるから、2日しか会えなくてもぎりぎりやっていける」

 ラインをする相手とは異なる女の名を呼んだと正直に告白する人に、自分は本当はどう思われているのだろう。彼は、人生に欠けているものを寄せ集めているだけではないのか。妻に折檻を受けながら、つかの間の癒やしが欲しかっただけ、欠けたピースは何でも良かったのではないのか。

 通子はおそるおそる割り箸を手にとった。冷めているのに、癪なほど旨い。通子の好物と知っているKが勝手にオーダーした、トッピングの明太子の塩気がちょうどいい。
「私は二日ぽっちじゃ足りないよ。いつだってもっともっと会いたいと思っている。一度でいいから終電を気にせず会いたいし、温泉だって行ってみたい」
「いつか行こうよ、フジロック。苗場の帰りは温泉に寄ってさ」
「いつかっていつ。奥さんがそんななら、ますます泊まりなんて無理じゃん。娘さんも心配だし。K、いつもできない約束ばっかりだね。私なんて一緒に行きたい所だらけなのに」
「たとえばどこ?」
 気持ちをほぐそうと、Kは必死だ。だからそういう優しさじゃないんだってと思いながら、通子は言葉をつなげる。
「おじいちゃんちのある島根で焼き物巡りもしたいし、めちゃくちゃ眺めのいい中央道の八ヶ岳サービスエリアのスタバも! でも、どうせそんなの無理だから、日帰りの箱根や九十九里に行きたいな」
「よくそんなに次々出てくるよなー。僕はミチカの隣ならどこでもいいのに」
 いつもの調子のいい甘い言葉で、ふたりにうたかたの笑顔が戻る。

 こんなささやかな会話で尖った気持ちの角がとれていくなんて、明太子の旨さ以上に癪だ。だからこそ思う。
 自分は彼でなければ困るのだろうか。相手に期待しすぎず、妄想をせず、制限付きの不安定な愛情をどうにか手のひらで囲って、炎を守る。欠けたピースが欲しいのは自分のほうで、もしかしたら明太子を勝手にオーダーし、箱根に付き合ってくれる相手なら誰でも良いと思っているのは自分ではなかったか。

第4話に続く(10月26日更新予定です)

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PROFILE

  • 央橙々

    小説『セカンド・ラッシュ』(『サンキュ!』ベネッセコーポレーション)にて作家デビュー。

  • 井上佐由紀(写真)

    1974年福岡県柳川市出身。東京都在住。写真家。九州産業大学芸術学部卒業。写真スタジオ、アシスタントを経て独立。現在はライフワークとして生まれたばかりの赤子の目を撮影しています。うどんとコーヒーがすき。
    コレクション:フランス国立図書館、サンフランシスコ近代美術館
    http://inouesayuki.com/ph/

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