明日のわたしに還る

冨永愛さん「カメラの前が、私の還る場所」

彗星(すいせい)のように現れ、名だたるブランドのランウェーを闊歩(かっぽ)した。オリエンタルな美しさと、日本人離れしたスタイルが、世界を魅了した。華やかな世界の真ん中でスポットライトを浴びながら、冨永愛さんは「いつも怒っていた」。コンプレックス、孤独、仕事、家族、休業そして復帰までを語る。

取材・文 中津海麻子

怒りと反骨精神 17歳で単身NYへ

「若いころの私は、いつも何かに怒っていた。怒りが『燃料』でした」

小さいころから飛び抜けて背が高く、手足も長かった。「宇宙人」といった心ない言葉でいじめられ、自殺を考えたことさえある。姉の勧めで15歳からティーン誌の読者モデルに。しかし、その体形がゆえに既製服が合わず、やがて呼ばれなくなった。

「自分ができることはこれしかないと思ってモデルになっても、また『違う』と言われる。さらにコンプレックスを深めました」

一方で、テレビでドルチェ&ガッバーナのショーを見て、「出てみたい」と初めて心が動いた。周りからは海外へ出ることを勧められた。トップモデルになって、自分をいじめた人たち、バカにしたやつらを見返してやる――。そんな思いを胸に、17歳で単身ニューヨークへ。「勉強が大嫌いで、英語なんて『This is a pen』ぐらいしかわかんない(笑)。体ひとつに負けん気だけ引っ提げて乗り込みました。怖さはあったけど、『やってやる』っていう気持ちの方が勝っていた」。

『ヴォーグ ニッポン』に高校の制服姿の写真が載ったのはちょうどそのころ。短いスカートにダブダブのルーズソックスというコギャルルックながら、抜群のスタイルと涼しげで大人っぽいまなざし。その圧倒的な存在感に、筆者も度肝を抜かれたことを覚えている。「すごい子が出てきた」と。

高校卒業を前に、ニューヨークコレクションでデビュー。オリエンタルなルックスは、白人モデルが多い中で唯一無二の存在となり、次々とビッグブランドのショーに出演するように。ファッションの世界の最先端で華やかに活躍しながら、しかし、愛さんを支えたのは、やはり怒りや憤りだった。日本人どころかアジア出身のモデルもまだいなかった時代。差別を感じたことは一度や二度ではない。「『愛には黒い服しか似合わない』って決めつけられたことが悔しくて、オーディションにはわざと白やカラフルな服を着ていった」。当時に思いをはせながら、「でもね」と続ける。

「今思えば、『日本人の愛には黒が一番似合う』と褒めてくれていたのかも。でも、私はネガティブにしか受け取れなかった。きっと自分の内面がそう思わせていた。周りと闘っているようで、実は自分のコンプレックスと闘っていたのかもしれない」

海外のショーに出たからって、何?

世界の名だたるショーのランウェーをさっそうと歩く愛さんに、「日本人初のスーパーモデル誕生」と日本中が色めき立ったが、それも「イヤで仕方なかった」と振り返る。

「スーパーモデルでもないし、トップモデルに比べたら私なんてまだまだなのに、なんでそんなに騒ぐの? って、やっぱり怒ってた(笑)。今の私なら、注目されて応援してもらって、それでいいじゃんって思えるけど」。なぜあんなに怒っていたのか、いまだにうまく説明できないという。

「『私は決して思い上がらなかった』というきれいごとなんかじゃない。それまで見向きもしなかったのに、海外のショーに出たからって何? と。理不尽に思えたのかな」

怒りと反骨精神をエネルギーに活躍の場を広げ、20代になるころには名実ともにスーパーモデルに。しかし、世界から認められれば認められるほど、心の中には埋められないほどの大きな穴が広がっていった。

「自分の存在が宙に浮いているような感覚。『冨永愛』がもう私のものじゃなくなったような。周りにはたくさん人がいるのに、世界の中にひとりぼっちみたいな孤独を感じていた」

身ごもったのは、まさにそんなときだった。当時22歳。電撃的な結婚と妊娠のニュースは国内外の関係者やファンを驚かせた。「私だって思うもん。そのタイミング? って」と少しおどけ、しかし、こう続けた。「無償の愛を捧げられる存在がほしかった。産むという選択しか考えられなかった」。

冨永愛さん「カメラの前が、私の還る場所」

ケンゾー 2006年春夏コレクション(大原広和氏撮影)

ランウェーを離れて思った。「私はこの仕事が好きなんだ」って

出産したら体形が変わるかもしれない。目まぐるしく変わるファッションの世界に戻る場所があるかもわからない。不安がなかったわけではないが、「どうにかなるだろう、って。若かったから後先はあまり考えてなかった」。

しかし、出産から半年後、愛さんは再びランウェーに立っていた。復帰の舞台となったケンゾーのショーで、一人息子を抱いて歩く姿は大きな話題に。出産前と変わらぬスタイルと存在感を見せつけたが、愛さんの中では大きな変化が起こっていた。

「ずっと『認めさせてやる、見返してやる』という感情で闘ってきた。でも、少し離れてモデルという仕事を俯瞰(ふかん)したときに、ああ、私はこの仕事が好きなんだ、もっと自分ならではの表現をしてみたいと思った。だから、戻ることを決めたんです」

再び日本と海外と行き来する生活が始まった。それも乳飲み子とともに。「海外の方が理解があってバックステージにも連れて行けたし、『一緒に出ちゃえば?』と言ってもらったことも。夫も精いっぱい協力してくれて、やろうと思えばできる、と」。

もちろん、子どもを抱えて世界のコレクションを渡り歩くことはたやすいことではない。だが、愛さんはそれをやってのけた。アジアを代表するトップモデルとしての地位も確立した。スポットライトを浴び、まばゆいほどのフラッシュを浴びながら、しかし、「実はやめどきを探していた」と打ち明ける。「そろそろ次の場所に行かなきゃ、という思いが強まっていった」。

揺れる気持ちに踏ん切りをつけるように、愛さんは周りをあっと驚かせる行動に出る。パリのオートクチュールのショーに金髪で現れたのだ。アジア人の象徴である黒髪を染めたことに、現地のエージェントからは「何を考えてるんだ?」と批判された。ところが彼らの心配をよそに、デザイナーたちは「クール!」「センセーショナル!」と絶賛した。中でもジバンシィのリカルド・ティッシから入った電話は、特別だった。「愛をエクスクルーシブにしたい」。

エクスクルーシブとは、そのシーズンはそのブランドのショー以外には出演しないという、いわば専属契約。スーパーモデルの証しだ。その栄誉あるオファーに、愛さんは「これで最後」と心を決める。

そして2010年、ブログでコレクションからの引退を発表。「息子との生活を重視したい、と書きました。それは本当。でも、私がやめた理由が息子のことかというと、そうではない」。

気づけば、モデルとして10年の月日を駆け抜けてきた。ファッション業界は常に新しいスターを求め、希少価値のあったアジア人の枠にも、若いモデルたちが次々と登場していた。その中で10代のときのように闘っていけるのか……。そう考えたとき、「もういい、と思った」。

コレクションモデルをやめ、海外中心の暮らしを終え、さらに結婚生活にピリオドを打った。人生の舵(かじ)を大きく切った愛さんの元に、あるオファーが届く。J-WAVEのナビゲーターだ。「それまで私は外見で表現をしてきた。ラジオは外見は一切関係なく、声だけで表現する仕事。おもしろい、やってみよう! って」。

ラジオが評判となり、テレビにも出演するように。タレントとしても人気を博し、ひっきりなしに仕事が入った。多忙を極めていたある日、ついに体が悲鳴をあげる。突然の呼吸困難に襲われ救急搬送。高熱が下がらず、2週間近くの入院生活を余儀なくされた。点滴につながれた母を不安そうに見つめる息子の姿に、朦朧(もうろう)とする意識の中、一緒に過ごす時間が少なすぎたことを悔やんだ。「こんなに私を思い、必要としてくれているこの子が、何に興味を持っていて、何が好きなのかすらわからない。親として恥ずかしかった」。

冨永愛さん「カメラの前が、私の還る場所」

VOGUE JAPAN 2017年12月号 Photo: Eric Guillemain @ Condé Nast Japan

3年休業、息子と向き合って

退院した愛さんは少しずつ仕事を減らし、休業生活に入る。24時間365日の母親業に加え、PTAの活動にも参加した。「お母さんってこんなに大変なんだ、って、もうビックリ!」。毎日忙しく、毎日いろんなことが起き、毎日悩んだ。「外的な刺激よりも内的な刺激にあふれていた。自分自身をすごく見つめました」。

これまで一緒にいられなかった時間を取り戻すように、息子と過ごす毎日。「発見もあった。この子、こんな横着なところもあったんだ!とか」。愛さんは笑顔でこう続ける。「正直、自分のキャリアがどうなってしまうのか不安はありました。でも、それでもいいと思えるほど、息子と過ごした時間はすばらしいものだった。私の選択は間違っていなかったと自信を持って言える」。

そして3年の月日が流れた。息子が中学に進学したこともあり、1年前、活動を再開。表舞台から離れ、自分を見つめ直した愛さんがたどり着いた答えは「モデルとして生きる」。「ランウェーを歩くお母さんを見たい」という息子のひと言も後押しになった。改めてモデルという仕事の楽しさに気づくと同時に、以前は感じなかった難しさも痛感している。「ひとつとして同じランウェー、同じ撮影はない。そこでできる表現も無限大にある。年齢と経験を重ねたことで表現の幅は広がっているかもしれないけれど、その分、難しい」。

自分に還(かえ)る場所や瞬間は何かを尋ねると、「うーん……」としばらく考え込み、「カメラの前にいるときかも」。「撮影は、ファインダーを通じてカメラマンと精神的な対話をする作業。でもそのとき、私は私自身に一番向き合っているような気がするんです」。

若いころは怒りをエネルギーにトップまで上り詰めた。さまざまな人生の節目を乗り越えた今の原動力は? と問うと、「愛、かな」。モデルという仕事への愛、そして、かけがえのない家族への愛。

「怒りはもうない……いや、あるな(笑)。負けず嫌いは私の性(さが)。前に進むために、何くそ! という気持ちは持ち続けていたい」

これから先も、「冨永愛」という人生のランウェーは続いていく。 

冨永 愛(モデル)

17歳でNYコレクションにデビューし、一躍話題となる。以後約10年間にわたり、世界の第一線でトップモデルとして活躍。その後、拠点を東京に移し、モデルのほか、テレビ、ラジオ、イベントのパーソナリティーなど様々な分野にも挑戦。チャリティー、社会貢献活動や日本の伝統文化を国内外に伝える活動など、その活躍の場を広げている。

冨永愛オフィシャルサイト http://www.tominagaai.net/

『人魚の眠る家』篠原涼子さん「弱くて小さな自分が恥ずかしくなるくらい、大きくて大事なことを現場から学んだ」

トップへ戻る

RECOMMENDおすすめの記事