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キッチンは、旅でたどり着ける一番遠い場所 『南インド キッチンの旅』

齋藤名穂著『南インド キッチンの旅』(ブルーシープ刊)2,500円(税別)


齋藤名穂著『南インド キッチンの旅』(ブルーシープ刊)2,500円(税別)

実際、よくわからない本なのだ。

まず書店員が、どの棚に置くべきか少し迷ってしまう。南インドを旅しているけれどもガイドブックではない。キッチンの間取りやスケール、調理道具や食材がイラストで描かれているけれど、建築やインテリアの本でもない。おいしそうなレシピも載っているけれど、どうやら料理本ではなさそうだ。

  

次に、著者のこと。齋藤名穂は作家ではない。本を出版するのも初めてだ。早稲田大学とフィンランドのヘルシンキ芸術デザイン大学で建築やデザインを学び、現在は空間や家具をデザインする仕事をしている。そんな彼女がなぜか南インドに旅して、それもキッチンを訪ねた本を出版したというのだ。

何より、内容がユニークだ。齋藤は2014年に3カ月半、南インド・タミルナード州の州都チェンナイ(マドラス)に滞在し、さまざまなバックグラウンドをもつ21組の人々のキッチンを訪ねた。丁寧な文章と手描きのイラストや写真で、南インドの暮らしや文化を映し出す。こぼさないように、見聞きしたものをそのままスケッチブックに貼り付けたようなレイアウトも魅力的だ。

  
  

文章はたいてい、訪ねた人や場所のこと、迎え入れてくれた人々の反応から始まる。家族構成や人間関係、ふとした拍子に垣間見える人柄。ココナッツの削り方から、アリバールマナイ(置き型の包丁) など独特な道具の使い方、料理を仕上げるテンパリングなどさまざまな調理の過程がきちんとドキュメントされていく。そして、室内の描写を織り交ぜながら、人々との対話が深められ、キッチンを通じた発見へと至る。

例えば、漁師たちが住む地区にある、集合住宅の小さなキッチン。行き来する住人にとって、恵みをもたらす広い海と料理をするためのキッチンとが地続きなことに気づき、「ランドスケープそのものがキッチン」だと理解する。6年間使われていなかった「記憶の中のキッチン」。2004年に津波に襲われ、1日10時間ほどが「停電中のキッチン」。料理をあまりしなくても幸せな気持ちに包まれる「料理をしないキッチン」など、ひとつひとつに豊かさを見出していく。

  
  

小さくても、バラックのような佇(たたず)まいであっても、齋藤はキッチンを特別視しない。相手の懐にふわりと入り込むと、旅人の客観的な眼差(まなざ)しと、けれども親しみと敬意に満ちた言葉で感じたことを綴(つづ)る。言葉による映像のような描写に、切なくも温かい気持ちが、読後にじんわりと広がる。21の物語は、それぞれ最後の見開きをレシピが締めくくる。レシピは役に立つ情報として掲載されているのではない。読者が料理を作って味わうことで、齋藤がキッチンで体験した時や空気を呼び覚ますためにあるのだ。

  
  

この「よくわからない」本、実は2017年に英語版が出版され、今回日本語に翻訳された。英語版を作ったのはインドの出版社タラブックスだ。本好きの間ではよく知られているタラブックスは、『夜の木』(タムラ堂刊)など、ハンドメイドの本を中心に斬新なアイディアを次々と繰り出し本の可能性を広げている。世界的にも注目される出版社で、昨年末からその活動を紹介する展覧会が全国を巡回中だ(現在は三島のベルナール・ビュフェ美術館で来年1月14日まで)。

タラブックスは、2014年に東京・板橋区立美術館で行われた「本の形」をテーマにしたワークショップで齋藤を見出した。齋藤は、少数民族の思想や表現を、本を通じて紹介するタラブックスに興味を抱きワークショップに参加し、代表のギータ・ウォルフと意気投合した。「いっしょに本を作らない?」と誘われると、本づくりのテーマをもたないまま、数カ月後にはチェンナイのタラブックスを訪ねていた。

左右にタラブックスのギータ・ウォルフさん、V. ギータさん、中央に齋藤さん


左右にタラブックスのギータ・ウォルフさん、V. ギータさん、中央に齋藤さん

タラブックスの社屋「ブックビルディング」には、本を作るために外国からアーティストやイラストレーターが長期滞在できるアパートが用意されている。齋藤はそのキッチンで途方にくれた。なぜなら食材や調理器具が、見たことも使ったこともないものばかりだったから。立ち尽くしながらも、好奇心を掻(か)き立てられた。

チェンナイに到着した最初の週末のこと。同僚の友達の家に招かれ、キッチンでおしゃべりをしながら、「キッチンって、旅でたどり着けるのに一番遠い場所なんじゃないか」と気がついた。キッチンというプライベートな空間を、そこに暮らす人を巻き込みながら理解していく。考えをギータに伝えると、「おもしろい!」と賛成されて本づくりは始まった。こうしたプロセスは、本づくりというより、むしろアーティストのプロジェクトのようだ。

  

知られざる著者を発掘し、手に取りやすい本という形を通じて、新しい表現を生み出すのがタラブックスの真骨頂だ。ギータは、物事を客観的にとらえ表現する齋藤の特殊な才能を、『夜の木』『世界のはじまり』の著者バッジュ・シャームに似ていると評している。この本は、齋藤名穂と本という存在の、これからの可能性を示している。

私たちは、似たような本、わかりやすい物事に、慣れ過ぎていないか。「よくわからない」ことこそが、私たちが生きていく上でもっと大切で、かつ魅力的なのではないだろうか。

  

出版記念 齋藤名穂「南インド キッチンの旅」展

2018年11月16日(金)〜12月8日(土)*日月休
Books and Modern + Blue Sheep Gallery(東京・乃木坂)

齋藤が旅したキッチンの実測図と南インドの風景の写真、スケッチの断片、さらにタラブックスの映像監督アルン・ウォルフが本書のために撮影したショートフィルムなどを展示、上映。会期中ギャラリーで本を購入するとスパイスをプレゼント。
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齋藤 名穂(さいとう なお)
東京生まれ。建築家、デザイナー。早稲田大学理工学部建築学科卒業後、フィンランドへ留学。ヘルシンキ芸術デザイン大学空間デザイン専攻修了。UNI DESIGN主宰。目の見える人と見えない人が一緒によむ地図や、建物の記憶をひき継ぐ家具、保育園の家具・ワークショップのデザインなど、人や素材の中にある場所・建築の記憶をテーマにしたデザインを多く手がけている。 2017年に板橋区立美術館で開催された展覧会「世界を変える美しい本 インド・タラブックスの挑戦」では、会場デザインおよび展示ボックスのデザインを佐野哲史(Eureka)と担当した。

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草刈大介(ブルーシープ代表)
朝日新聞社に入社し、「ミッフィー展」などの絵本展、「スヌーピー展」「加藤久仁生展」「機動戦士ガンダム展」などの漫画やアニメーション関係、「ブルーノ・ムナーリ展」などのデザイン関係、「マウリッツハイス美術館展」などの絵画展を担当。
2015年春に退社し、ブルーシープを設立。「スヌーピーミュージアム」「シンプルの正体」「世界を変える美しい本 インド・タラブックスの挑戦」「ルート・ブリュック展」などを担当。東京・乃木坂のBooks and Modern + Blue Sheep Galleryも共同運営している。

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