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今年、一番心に残った1冊。『天龍院亜希子の日記』

今年、一番心に残った1冊。『天龍院亜希子の日記』

撮影/馬場磨貴

早いもので、もう今年もあとわずかである。というわけで、今回は自分が今年読んだ中で一番心に残った1冊を紹介したい。

安壇美緒の『天龍院亜希子の日記』は、今年の小説すばる新人賞受賞作。つまりこれがデビュー作である。本屋で偶然見つけた時にその題名と書影にひかれて直感的に手に取ったわけだが、その判断は正解だった。

小説の新人賞受賞作にはとっぴな設定や凝った文体のものが往々にしてある。しかしこの『天龍院亜希子の日記』はその題名とは裏腹に、とっぴな設定も凝った文体もない、非常に読みやすい、いい意味でありふれた小説である。

退屈な日常、を支えるもの

主人公の田町譲は人材派遣会社に勤める27歳で、恋人とは遠距離恋愛中だ。職場の人間関係はギクシャクしており、お世辞にも良いとは言えない。残業も多く、休みの日にはネットサーフィンをして求人サイトを見るぐらいしかやることがない。そんな主人公の退屈な日常を支えているのは、小学校時代の同級生である天龍院亜希子の日記と、小学校時代に憧れていた元プロ野球選手・正岡の薬物スキャンダルのニュースだ。

主人公は小学校時代に、天龍院亜希子のその荘厳な名字をからかって泣かせたことがある。しかし接点はその時ぐらいで、小学校卒業以降は顔を合わせたこともなかった。しかし、ある時ネット上で彼女の日記を発見し、いつしかそれをチェックするのが主人公の日課になっていく。

それと並行して甲子園の本塁打記録を持つ元プロ野球選手の正岡の薬物スキャンダルをチェックすることもいつしか彼の日常となっていく。野球をやっていた主人公にとって正岡は憧れの選手で、主人公は子どもの頃に神宮球場で正岡からサインボールをもらった時の喜びを忘れずにいる。

しかしこの二つの出来事が主人公の日常や物語に大きく関与することはない。それはあくまで日常の中の一コマであり、主人公はただただ毎日同じように人材派遣の仕事をこなし、父親の介護のため地元静岡に戻った彼女との遠距離恋愛が語られるだけだ。

そう聞くと、単調でまるで面白みのない小説のように思えるかもしれない。しかし、実のところ我々の日常生活だって、物語でよくあるような劇的な展開が起こることはそうそうなく、すぐ忘れてしまうような世間のニュースに一喜一憂したり、子どもの頃の楽しかった思い出を懐かしんだりしながらも何も変わらない日常を過ごしていくだけである。

人を信じるということ

小説を読んでいると、無意識のうちに物語の起伏を期待してしまう。自分もこの小説を読んでいる時に、この先はこうなるだろうと思いながら読んでいた。しかしそれはことごとく裏切られた。つまりフィクションの世界にありがちな都合のいい展開は、この小説には一切なかった。そのリアルなほどの展開に自分はとても共感し、心打たれた。

物語の終盤に、主人公がある人物から人を信じることについて説かれるシーンがある(ネタバレになるので詳しくは書けないが……)。そこで主人公は、人を信じたところでそれがその人に伝わることはない、と言われる。

しかしそれでも信じ続けることで、今度は自分がつらくてどうしようもない時に、「この世の誰かがどこかでひそかに自分を応援してくれてるのかもしれないって呆(あき)れた希望」を持つことができる、と説かれる。

ここの一節は自分が今年読んだ本の中で一番感銘を受けた一節である。こういう自分の目線を変えてしまうほどの一節に出会うことこそが、読書の最大の楽しみなのだと改めて実感した。

何の変哲もないありきたりな小説であるのに、読後感はとても爽やかで、自分もなんとなく「呆れた希望」を持ってみようと思える1冊だった。
(文・松本泰尭)

今年、一番心に残った1冊。『天龍院亜希子の日記』

『天龍院亜希子の日記』安壇美緒 著 集英社 1512円(税込み)

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松本泰尭(まつもと・やすたか)

人文コンシェルジュ。大学卒業後、広告代理店などメディア業界で働いたのち、本の仕事に憧れて転職。得意分野は海外文学。また大のメジャーリーグ好き。好きな選手はバスター・ポージー。

建たなかった建築、50の物語。<br>『まぼろしの奇想建築 天才が夢みた不可能な挑戦』

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