朝川渡る

水曜日の青山くん(4)白いご飯

 

>>水曜日の青山くん(3)柚子胡椒からつづく

よっこさんは意外なほど冷淡だったので、肩透かしを食らった。
「主婦宅に上がり込むなんて、軽い男だね。いつもそうやって人妻をたぶらかしてるんじゃないの?」
近所付き合いは良くも悪くも、腹七分目が大事だ。自分の考えは7割だけ言い、反論は濁すに限る。どんなに親しくても、である。ひょっとしたら夫婦もそうかもしれない。智紀は、玄米は嫌だと思っていたのに7割は全子(みなこ)の主張に同調して、あとの本音を隠していた。

全子は浮足立つ自分を隠し、「どうかしらね」と流す。よっこさんがたたみかける。
「なんだか慣れてるもの。対談だか座談会っていうの? それもみっちゃんちに上がり込む口実だったかもしれないよ?」
柚子胡椒について質問したのも、料理を切り出したのも自分だ。全子は内心「それはないわ」と抗議をした。

あれほど冗談交じりに愛だ恋だと焚きつけていたのに急になぜだろう。疑問は、帰り際のひとことで解けた。
「賢い子どもがいて、やさしいだんなもいる。みっちゃん全部持ってるじゃん。これ以上何がほしいの。バチが当たるよ?」
青山くんは敦也くんの代わりなだけだよ。学校のあだ名なんてつけちゃってさ、変な気起こさないようにね。靴を履きながら玄関で全子を見ずに言う。

よっこさんの小さな背中には、寂しさが張り付いていて、喉まで出かけた言葉を全子は飲み込んだ。

全部持ってるって何を。身の丈に合わない食材を買い続け、家族の健康のためにしたことを夫から疎まれ、長らく我慢されていた。それはきっと玄米だけではない。

仮になにかを持っていたとしたら、女はみんな一切を欲してはいけないのだろうか。欲しいと言ったらバチが当たるのか。青山くんとどうにかなりたいと言っているのではない。料理をしてもらうだけだ。彼と話すと楽しい。そんな時間さえ持ってはいけないのか。

主婦というだけで、好意も思慕も封印しなければいけないのだとしたら、結婚はなんと息苦しく、希望のない作業だろうか。妻や母は生身の感情を持ってはいけないから、よっこさんはドラマにハマるのだろうか。
不倫か否か。その間に介在する感情に、名前がないことが全子は悔しい。
はてしなく不自由だ。

と、智紀からメールが来た。
「残業になるから夕飯は大丈夫だよ」。
「いらない」ではなく「大丈夫だよ」と書くようになったのは、彼のささやかな成長である。今週はこれで個食が3回目である。全子は思う。長い間白米を食べたいと言えずにきた智紀もまた不自由だったのだろうか──。

6日後の午後5時半。
用意したスリッパから青山くんの足が大きくはみ出ていて、思わずくすりと笑った。
「ほら笑われた。馬鹿の大足。僕29センチなんです」
屈託のない笑顔でリビングのドアをくぐる。わずかな汗とグリーンノートのフレグランスの匂いがふわりと部屋に舞い込んだ。こういう香りを付ける人なんだと、あたらしい青山メモが脳裏に追加される。

使い込まれたエコバッグからバゲットがのぞいている。カーキ色のカーゴパンツに生成りのリネンのシャツ。こざっぱりとしつつ垢抜けたコーディネートで、作業着を見慣れていた全子はかえって緊張をした。

「さあ、早速作りますよ。自家製柚子胡椒のパスタとカルパッチョ、鶏もも肉の柚子胡椒焼き、それとれんこんのスープです。ご主人の分も作っておきましょう」
「今日は夫が遅くなるから、黒木さんと2人分でいいわ。一緒に食べましょう」
いえいえせっかくですから3人分。そういってジャケットを脱ぐと、まるで長く暮らす恋人にそうするように全子に渡した。指が触れたが、彼女は気づかぬふりをした。

キッチンの青山劇場は、見惚れるほど手早く器用だった。男には珍しく、同時に二つ三つのことができる。全子は頼まれるままに、テーブルでにんにくやにんじんの皮を剥くだけで、あとは座っていてくださいと、コルクをキリキリスポンと抜いた白ワインを、グラスとともに手渡された。誰かが作ってくれる食事を待つのはこんなにも心満ちるものだったのか。

テーブルに料理が並ぶ頃には、青山くんの身の上もひとしきり聞き終えるほどに打ちとけていた。郷里の両親は教師で、母は彼が幼い頃から生活クラブによる市民運動に参加していたという。

何をどれだけ話しても飽きない。馬が合う、という形容が一番しっくり来る。全子は年齢の差を忘れてお喋りに興じた。彼は、仕事柄か年上女性と話すのにいかにも慣れている。料理、環境保全と農業、放射能測定、組合組織、生まれ育った家族。いつしか日は暮れ、帰り際を探り合う時間帯になっていた。

リュックからフードプロセッサーを出したときも驚いたが、じっと全子の目を見つめ、麻ひもで結わえた檸檬(れもん)色の和紙の小さな包みを渡されたときはもっと驚いてどうしていいかわからなくなった。
そっと右手で受け取った瞬間、ぐいっと引き寄せ、抱きすくめられた。膝が震える。肩と頭が、すっぽり彼のたくましい腕にホールドされ、身動きが取れない。彼が耳元でかすれた声を絞り出す。
「少しだけ、このままでいさせてください……」

厚い胸の奥から、鼓動が伝わる。同じだったんだ。毎週水曜日の9時50分。カーンという音と同時に鳴り始める私の鼓動と、同じリズムを今、彼の胸が刻んでいる。右の耳に、彼のふわりと温かな吐息を感じる。

包みを持った右腕と、ぶらりと垂れ下がった左腕を彼の背中に回しかけたとき、耳元で彼が言った。
「僕、ゲーニンになるんです」
は? え、なに。今、ゲーニンって言った?

「太陽マルシェはちかぢかネットグルメ社に買収されます。母が生協運動を始めたころの組合員は半分以下に減っている。買収されたらもっと離れるでしょう。僕も体力的に、いつまでマンションの上まで野菜を持って駆け上がれるかわからない。
小さい頃からずっと芸人になりたくて、働きながら、お笑いスクールに通っていたんです。世の中を明るくするという意味で、僕にとっては太陽マルシェもお笑いも同じベクトルです。ここらで本格的にお笑いに打ち込もうと」

ほどいた腕のやり場に困ったこと以外、それ以降の会話をあまり覚えていない。年齢的に少し遅すぎやしないかという問いかけは飲み込んだ。
「そんなわけで今月で太陽マルシェは退社します」という彼に「料理もできる芸人さんは強みかもね」と苦し紛れに励ますのが精一杯だった。
彼が去ったあと、グリーンの香りとともにゲーニンという言葉の違和感が部屋に置き去りにされていた。

包みの中身は、小瓶にはいった柚子胡椒だった。添えられたピンクの縁どりのグリーティングカードには、青い万年筆でこう書かれていた。「半年間、おいしい梅ジュースをありがとうございました。僕の大事な支えでした」

>>最終話につづく

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PROFILE

  • 央橙々

    小説『セカンド・ラッシュ』(『サンキュ!』ベネッセコーポレーション)にて作家デビュー。

  • 井上佐由紀(写真)

    1974年福岡県柳川市出身。東京都在住。写真家。九州産業大学芸術学部卒業。写真スタジオ、アシスタントを経て独立。現在はライフワークとして生まれたばかりの赤子の目を撮影しています。うどんとコーヒーがすき。
    コレクション:フランス国立図書館、サンフランシスコ近代美術館
    http://inouesayuki.com/ph/

水曜日の青山くん(3)柚子胡椒

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