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ゴンチチ、運命的な40年前の出会い(前編)

ゴンチチ、運命的な40年前の出会い(前編)

撮影/山田秀隆

ゴンザレス三上さん、チチ松村さんによるギターデュオ、ゴンチチ。音楽好き、ギター好きの二人の青年は、「運命の出会い」を果たす。音楽のルーツから出会い、結成、デビューまでを語る。(文・中津海麻子)

賛美歌が、僕にとって最初の音楽でした(松村)
おじさんがかけていたレコードが、根っこにあります(三上)

――子どものころの音楽の原体験は?

松村 親がクリスチャンだったので、日曜学校などで教会に通っていました。賛美歌を聴いたり歌ったりして、それが僕にとって最初の音楽でしたね。美しいメロディーやハモりに「きれいやなぁ」と感動し、自然と頭の中、体の中に入ってきて。自分が作るメロディーにも影響があるなぁと思います。

三上 僕は小さいころ、一緒に暮らしていたおじさんがムード音楽や映画音楽が好きで、仕事から帰ってくるとステレオでレコードをかけていました。夕暮れ時から夜にかけ、そういう音楽が耳に入ってきた。それが自分の根っこにあると感じます。もう一つ忘れられないのが、幼稚園の食事の時間に流れていたルロイ・アンダーソンの「シンコペイテッド・クロック」。ハイトーンのオーボエのような音が鳴るアレンジに、思わずのどがつかえてしまうほど感動して。すごい、音楽ってこんなに楽しいものなんだと、体が震えるほどでした。

松村 幼稚園でその曲を流していた先生がすごいね。「シンコペイテッド・クロック」は今、僕らのレパートリーになっています。中学に入ったころはフォークソング全盛の時代。ちょっとマイナーな関西フォーク、特に高田渡さんが好きになりました。当時京都のラジオ局で放送されていたフォーク番組があって、そこでかかる高田さんの曲をオープンリールのテープに録音し、歌詞を書き起こしてアカペラで歌う……そんなことやってました。ほかにも、高石ともやさんや遠藤賢司さん、友部正人さんなど、アングラ系の方々の影響を受けましたね。

ギターとの出会い、二人の出会い

――自分で音楽をやるようになったのは?

松村 ギターを始めたのは高校生になってから。親戚のマコちゃんことマコトくんがギターをやっていて、「マサちゃんも弾いてみ」と勧めてくれた。僕、本名が正秀なんでマサちゃんと呼ばれていたんです(笑)。ものすごくおもしろくて、夢中になった。すぐに曲も作るようになりました。

三上 僕は、楽器店につるされていたギターの形がすごくいいなぁと思い、意を決して親におねだりしました。小学5年生のときのことです。クラシックギターを習っていた友達がいて、彼が先生から習ったことを、また聞きで教わることに。基本がわかって、自分なりに勝手に弾いていたら、友達から「それはどこの譜面でどうなってるの?」と。彼にはよくわからなかったみたいで。それからは、自分の好きなように弾くようになりました。

曲を作るようになったのは、ずいぶん後になってから。22歳ぐらいかな、家に古びた英会話用の2トラックのカセットデッキがあって、ダビングができたんです。最初にギターのサイドを入れ、その音をかけながら別の音を録音して……と、ようするに宅録ですね。それまではただギターを弾いているだけでしたが、宅録をするようになってから本当の音楽に目覚めたように思います。

松村 僕は19歳ぐらいからライブハウスで歌い始めていました。自分で作った曲はもちろん、ラグタイムやジャズのスタンダードをギターで演奏するなど、インストゥルメンタルの曲も。そうこうしているうちに、友人が三上さんと引き合わせてくれたのです。

――お二人の出会いですね?

三上 松村さんの音源を聴いたことはありましたが、直接会ったことはありませんでした。ある日、友人から「ごはん食べに行こう」と誘われて。ついて行ったら電車に乗るんです。ずいぶん遠くまで食べに行くんだなぁ、おかしいなぁと思っていたら、着いた先が松村さんの家(笑)。彼は松村さんとも友達だったんです。

松村 友人は「この二人を合わせたらおもしろい」と思ったんでしょうね。でも、三上さんは人見知りで初対面の人に会うのは苦手なタイプやったから、強引に連れていくしかないだろう、と思ったんと違うかな。

三上 そうかもしれないですね。

松村 その友人から「この人がギターのうまい三上さんです」と、玄関でいきなり紹介されて。まぁまぁお上がりください、せっかくいらっしゃったんだから一緒にギターでも弾きましょか?と。で、セッションしたらこれがすごかった。今も僕らのレパートリーの1曲になっている「My Favorite Things」だったのですが、初めてとは思えないぐらいピタッとハマって。

違うものを聴いてきた者同士の音楽が、合体した

松村 何より三上さんのギターの腕に度肝を抜かれました。ギターがうまい人がいると聞けばライブに行ったりもしてたのですが、正直、大したことないなぁというケースが多かった。でも、三上さんのギターは、なんというかリズムの感じが日本人じゃない。この人ひょっとしたら外国人ちゃうかな? と(笑)。

三上 僕も驚きました。二人のリズムの間合いがとにかくぴったりと合った。ふすまの向こうに松村さんのご家族がいらっしゃったのですが、僕らの演奏を、レコードをかけていると思ったそうなんです。自分でも音楽として様になっている演奏が初めてできた、という実感と手応えがあった。今でも松村さんと一緒に演奏すると、このときの感覚になります。

松村 三上さんは幼いころにムード音楽や映画音楽を、そのあとはビートルズやジャズを聴いてきた。僕はフォークを聴いてたんだけど、高田渡さんはカントリーブルースにルーツがあると知り、アメリカの1920年代の古いジャズもよく聴いていました。僕の中にある、ある意味泥臭くてアクの強いものと、三上さんのモダンで洗練されたものが、うまい具合に「合体した」。聴いてきたものが違う二人の音楽が交わって、僕らの音楽が生まれたのです。

もう一つ、三上さんはクラシックギターをやってきたからナイロン弦の、僕はフォークだから鉄弦のギターを使ってきた。ナイロン弦と鉄弦という、ほかではあまり見ない組み合わせになった。こうして「ゴンチチのサウンド」が生まれたのです。今思えばすべてが運命的な巡り合わせやったなぁと。すごく不思議ですよね。

「ゴンチチ」という名は、自分らで決めたわけではなかった

――すぐに一緒にやり始めたのですか?

松村 たまたま僕がギターのコンサートに呼ばれて。憂歌団の内田勘太郎さんや有山じゅんじさんらが出るライブで、こんなにギターのうまい三上さんが出てくれたら皆さん喜んでくださるんじゃないかと、一緒に出ることにしました。そのときに「本名の三上雅彦さんで出ますか?」と聞いたら、三上さんは「それは困ります。ゴンザレス三上でお願いします」。そうですか、ならそれで、と。ほんならすごい立派なポスターが仕上がってきて、「ゴンザレス三上」がバーンと印刷されていて(笑)。

三上 いい思い出になればいいな、ぐらいにしか考えてなかったんですが(笑)。

松村 僕は本名のままやったので、しばらくは「松村正秀とゴンザレス三上」でやっていました。大阪ローカルの「FRIDAY」という若者向けの情報番組でエンディング音楽を担当したのですが、司会者が僕らを紹介するときに「ゴンザレス三上と松村マサキチ!」やら「村松!」やら、やたら僕の名前を間違える(笑)。なんか考えたほうがいいかなと思っていたときに、三上さんから借りたチャーリー・パーカーのアルバムの中に「chichi(チチ)」という曲があり、響きがいいなぁと。それを「titi」にしてチチ松村としました。で、「ゴンザレス三上とチチ松村」でやってたんやけど……。

三上 3枚目のアルバムか何かのときにレコードジャケットのデザインの都合で「ゴンチチ」と縮められてしまったんです。こっちの方が覚えやすいと言われ、ああ、そうですかと(笑)。

松村 「中田ダイマル・ラケット」が「ダイラケ」、「夢路いとし・喜味こいし」が「いとこい」みたいな感じやね(笑)。新聞のラテ欄でも長いからと短縮されて。自分らで決めた訳やないんですよ。

「FRIDAY」は生放送で、エンディングまでとにかく待たされた。時間がたっぷりあったので、その間に曲がどんどんできていきました。そして、インストゥルメンタルがおもしろくなっていった。歌詞がない分、聴く人の想像力をかき立てますからね。

アコースティックとデジタルが融合 ゴンチチのスタイル誕生

――デュオ結成から5年後の1983年、ファーストアルバム『ANOTHERMOOD』でデビューします。経緯は?

三上 テレビに出るためにマネジャーがデモテープみたいなものを作ってくれました。それが業界内にわたって、音楽系の出版社の方から「レコードを作りましょう」と声をかけていただいて。

松村 当時は環境音楽いうのがちょっとはやっていたんです。エリック・サティ、ブライアン・イーノ、ペンギン・カフェとかね。そういうのと同じような感じだと捉えられていたみたい。その流行に乗っかる感じで、レコードを出してもらえたのかもしれません。

三上 今のように自分たちでCDを焼いて配るなんてことができない時代。レコードを出すのは非常にハードルが高かったので、感慨深かったですね。でも、かと言ってプロ意識は全然芽生えなかった。今もそうですけど(笑)。

松村 とにかく予算がなくて、マネジャーの奥さんが松下電器で働いていたツテで社内にあったスタジオを使わせてもらうことになりました。そこに、音響の研究用に日本に3台ぐらいしかなかったフェアライトCMIというシンセサイザーがあった。この機械を使えるということで、のちにPSY・Sとして活躍する松浦雅也くんが手伝ってくれることになった。まだ大学生でしたが、技術もひらめきもとにかくすごい。あのころの言葉でいえば「新人類」でしたね。結果としては、アコースティックギターとデジタルサウンドを融合させて音楽を作るというゴンチチならではのスタイルが、くしくもこのとき生まれたわけです。

三上 ずっと二人でギターを弾いてきたけれど、そこにシンセサイザーの音色が加わるとものすごいな、と感動しました。本当の音楽になったというか。だから自然と受け入れることができて、とても楽しかったですね。

でも、出来上がったアルバムはまったく売れませんでした。

後編へと続く

GONTITI(ゴンチチ)

1978年結成、1983年デビューのゴンザレス三上とチチ松村によるインストゥルメンタル・アコースティック・ギターデュオ。現在まで制作したアルバムは40枚を超え、10数枚のアルバムは全米、アジア他でも発売されている。竹中直人監督・主演の映画『無能の人』のサウンドプロデュースを手掛け、日本アカデミー賞優秀音楽賞を受賞。是枝裕和監督の映画『誰も知らない』や、同監督作品『歩いても 歩いても』で音楽を担当し、サウンドトラックもリリースされている。代表曲『放課後の音楽室』は音楽の教科書に掲載され、『ぼのぼの』のサウンドトラックを手がけるなど大人から子どもまで幅広い層に音楽が浸透している。2018年12月、結成40周年を記念してオリジナル・アルバム『「we are here」-40 years have passed and we are here-』をリリースした。

オフィシャルサイト:http://www.gontiti.jp/

PROFILE

中津海麻子

執筆テーマは「酒とワンコと男と女」。日本酒とワイン、それらにまつわる旅や食、ペット、人物インタビューなどを中心に取材する。JALカード会員誌「AGORA」、同機内誌「SKYWARD」、ワイン専門誌「ワイン王国」、朝日新聞のブックサイト「好書好日」、同ペットサイト「sippo」などに寄稿。「&w」では「MUSIC TALK」を連載中。

冨田ラボ「これこそが、今のポップスだ」という思い(後編)

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ゴンチチ、結成40周年超えて語る「相棒との関係」(後編)

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