東京の台所

<189>家賃も広さも半分に。長居したくなる事務所の台所

〈住人プロフィール〉
会社員(女性)・45歳
コーポ・1DK・東急大井町線 九品仏駅(世田谷区)
入居6年・築年数42年・社長(男性・50代)と2名で使用

    ◇

『じつは自宅ではなく、社長一人社員一人の勤務先の台所ですがよろしいでしょうか。今年勤続15年なので何か記念になることがしたいなあと台所の取材に応募しました』
 メール文には、ごく普通のアパートの2階で、階下は小さな個人経営のパン屋とある。1DKのデザイン事務所。取材を打診すると、「おしゃれでもなんでもないが本当にうちでいいのか」と、社員から何も聞いていなかった社長(男性)は慌てだしたという。

 彼女は、「社長は私以上に食べることが大好き。出勤途中に落ちていた梅を拾い、突然、事務所の台所でジャムを煮始めたりします。互いにデザインの話をしない日はいくらでもありますが、食べ物の話をしない日はありません」とのこと。
 東京には、“仕事場の台所”もあると、なぜ今日まで気づかなかったのだろう。なんだかおもしろそうなので、さっそく訪ねてみた。

 自由が丘駅で東急大井町線に乗り換え、九品仏駅から徒歩6分。静かな住宅地に、そのアパートはあった。トントンと階段を上がると、廊下まで住人の話し声が聞こえてきそうなこぢんまりとした建物だ。
 窓が3方にある角部屋で、玄関を開けるとすぐ右手に台所がある。
 部屋に対して、シンクやガス台が大きい。

「たまたま社長が立地と予算に適うところを探してここになったのですが、私は夫と暮らす自宅の台所がIHなので、3つ口のガス台をとても気に入っています」
 このガス台で、彼女は夏は素麺を、社長は前述のように仕事の合間に梅ジャムを煮たりする。
 奥の部屋には机が2台、南と西に向いて置かれ、大きなパソコンが載っている。本棚や壁には、手がけている演劇のポスターやチラシが。
 仕事の中心は、演劇周りのデザインである。ひとつの公演には、チラシ、ポスター、チケット、パンフ、ときにノベルティのデザインが付随する。これを社長が20年前からひとりで請け負い、彼女は15年前に求人広告を見て入社した。
 入社したときは、恵比寿の大きなビルの1室だったらしい。

「恵比寿は飲食店が多く、昼は外食かチェーンの弁当屋さんでした。家賃が上がったのを機に九品仏に越して、家賃もオフィスの広さも半分に。ぐっと小さくなりましたが、周りは静かで緑も多い。家族経営のパン屋さんやお惣菜屋さんが中心で、街の人との距離も近く、こっちのほうがずっと居心地がいいです」

 行きつけの惣菜屋では、大将や女将さんと顔なじみに。大将が釣りに行った翌日は並んだ刺し身を見ながらその話を聞く。女将さんからは「これ、揚げたてだよ」「その組み合わせだと芋と芋になっちゃうから替えたほうがいいよ」と何くれとなくアドバイスが。

 そのうち、惣菜屋からは店の名刺を、パン屋からはシールのデザインを頼まれるようになった。

 ある日、アパートの隣に住む小学1年の女の子が鍵がなくて廊下で座り込んでいた。
「どうしたの?」と社長が声をかけた。
「お母さんが留守で、鍵がなくて入れないの」
「うちで待ったら?」
 以来、事務所で宿題をしたり、手作りクッキーのお裾分けをもらったり、母親から旅の土産をもらったりと、ゆっくり交流が始まった。
 去年の夏休みは「旅行に行くから朝顔を預かってくれない?」と、女の子から頼まれて育てたそうな。
 アパートの他の住人ともたいがい顔見知りで、社長の自宅の庭でとれた蕗(ふき)と、ベランダ菜園のきゅうりを交換する。

「この町のサイズが私達にはちょうどいいみたいです」と彼女は言う。「そう、町の気配みたいなものがね」と、横でインタビューを聞いていた社長が付け加えた。

 二人職場だが昼食は別々。自分のタイミングで仕事の切れ間に、素麺を茹でたり、買ってきた惣菜と、即席スープを食べたりする。素麺の薬味のみょうが、ネギ、しょうがを刻んで家から持ってくることも。食事は二人一緒に、などと考えたら負担になるし、そもそも15年も続かないだろう。
 気配を感じながら、淡々と仕事も食も自分のペースでこなす。

 社長は、自宅の庭で採れた実山椒(さんしょう)をゆでて冷凍したり、きゃらぶきを煮たりと、旬の食材を保存・調理するのが得意だ。時々、おすそ分けしてもらうのが彼女の楽しみにもなっている。そういうことを楽しいと感じる二人を見て、なるほど、この会社は季節がわからない恵比寿のビルの広い1室より、狭くとも台所だけは大きく、窓が3方にあり、隣人ともゆるやかにつながるこの九品仏のアパートが合っていると思った。

 彼女はいう。
「これから世の中のいろんなことが小さく、小さくなっていくと思うんです。大きいことがいいという価値観ではない方向に。すると、自分にもゆとりができて、周りに目が向く。風通しも良くなってさらに生きやすくなる。15年仕事を続けてくるなかで会社の引っ越しを経験し、それをより強く実感するようになりました」

 荷物を下ろすと見えてくることがある。仕事にも、居心地の良さは重要だ。ひとくくりに言うつもりはないが、広くて立派で整っていることだけが効率を左右する要素ではない。
 さて、彼女の近々の夢は、グリルを使って焼き物をすること。仕事をしながらそんな事を考える環境が、ちょっとうらやましく思えた。

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東京の台所バックナンバー

PROFILE

大平一枝

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。■レンズ協力:SIGMA ART|18-35mm F1.8 DC HSM、SIGMA 17-70mm F2.8-4 DC MACRO HSM/

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