朝川渡る

弥生坂(いやおひざか) 1

連載短編小説「朝川渡る」5人めの物語、「弥生坂(いやおひざか)」を、12日間にわたりお送りします。

人言(ひとごと)をしげみ言痛(こちた)みおのが世に
いまだ渡らぬ朝川渡る

万葉集 但馬皇女(たじまのひめみこ)の歌

万葉集から、但馬皇女の歌です。天武天皇の皇子と皇女で異母きょうだいである穂積皇子と但馬皇女が恋に落ち、人々のうわさになっているさなかに詠まれたとされるもので、ひと夜をともに過ごした後、人目につかないよう、朝の川を渡って帰る様子をうたったとも、あるいは何を言われても自分は恋の障害の象徴である「川」を渡ります、という強い気持ちをうたったものともいわれています。

翻って今、メディアでは、様々な形の恋愛がときにバッシングの対象として話題にされています。しかし、向けられた言葉の間からこぼれおちている何かがあるかもしれない……。そのような視座から、この連載短編小説「朝川渡る」の企画は始まりました。

1300年前と同じように、いま、朝、川を渡るような思いで恋を紡いでいるすべての人に。作家の央橙々(おう・だいだい)さんが、日常の中の小さな「朝川」の物語を紡ぎ、写真家・井上佐由紀さんの写真と一緒にお届けします。皆さまのご感想、そして皆さまの「朝川」体験も、ぜひお聞かせください

    ◇


 しりしりとシャープペンシルを滑らせ絵コンテと格闘している午前2時は、決まって奇妙な寂寥(せきりょう)感に包まれる。宇宙にひとり漂流していて、もう誰も助けに来てくれないような。窓の向こうは永遠に闇で、土手の先にある線路に始発の電車は訪れない。

 たしかそんな洋画があった。スペースシャトルで船外活動をしていた女性博士が宇宙空間に放り出され漂流するのだ。あのヒロインには救ってくれる男性の相棒がいた。私にはいないのだと、あの日までは思っていた。

 今は違う。しんと静まり返ったこんな夜、思い出したように鳴る守時(もりとき)からのメール着信音が寂寥感を突き破り、私をシャトルに戻してくれる。

 さっきも、そうだった。
『連続50時間も家におこもり中。外の空気を吸いたいよ~』とツイッターでつぶやいた30分後、携帯電話に着信のバッジが現れた。クリックすると、漆黒の画面に、ゆっくり写真が2枚浮かびあがる。

 一枚は、静まり返った坂道を照らす街灯と群青がかった空に浮かぶふっくらまんまるの月。
 もう一枚は手前の民家が闇に沈み、下り坂のむこうに高層ビルがかげろうのように立ちのぼる路地。ひんやりと静かな美しい夏の下町のような風景。私の知らない東京、守時の住む街。

『十六夜の月と弥生坂。二枚目は小布施坂です』
『今、撮ってきた』
『仕事頑張れー。moritoki』

 パソコンで何度も見慣れたストリートビューを見る。本郷の東大近く。なんでもない民家に挟まれた下り坂が美しい。写真を拡大し、ためつすがめつした。小布施坂の写真はかなりロウアングルからあおるように撮っている。道に膝や肘をついたのだろうか。パジャマから着替えて外に出たのだろうか。もうすぐ3時なのに。

 自然に上がる口角を感じながら、コンテ描きに戻った。途中、何度かスマホを開けては写真を眺めて深呼吸をする。低い天井、自分の尻の形に沈んだ古い革の椅子、冷めたカモミールティ。見飽きた小部屋から一瞬、魂だけ本郷の夜の坂道にトリップできる。魔法のサプリを飲んだみたいに、ぐんぐん仕事がはかどった。
 同じ空の下に、私のことを気にしてくれている人がいる。外に出られない私の代わりに、6月の満月を届けてくれる。それだけで叫びたくなるほど満たされる。

 くたくたのヘロヘロで、どうにもこうにも一歩も進めないという限界間際、守時は絶妙のタイミングと最高にさりげない方法で私をレスキューしてくれるのだ。東京の東の街から。

第2話に続く)

*皆さまのご感想や、「朝川渡る」体験のご投稿を、お待ちしております。

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PROFILE

  • 央橙々

    小説『セカンド・ラッシュ』(『サンキュ!』ベネッセコーポレーション)にて作家デビュー。

  • 井上佐由紀(写真)

    1974年福岡県柳川市出身。東京都在住。写真家。九州産業大学芸術学部卒業。写真スタジオ、アシスタントを経て独立。現在はライフワークとして生まれたばかりの赤子の目を撮影しています。うどんとコーヒーがすき。
    コレクション:フランス国立図書館、サンフランシスコ近代美術館
    http://inouesayuki.com/ph/

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