朝川渡る

弥生坂(いやおひざか) 4

連載短編小説「朝川渡る」5人めの物語、「弥生坂(いやおひざか)」を、12話にわたりお送りします。

第1話 第2話 第3話 第4話 第5話 第6話 第7話 第8話 第9話 第10話 第11話 第12話

人言(ひとごと)をしげみ言痛(こちた)みおのが世に
いまだ渡らぬ朝川渡る

万葉集 但馬皇女(たじまのひめみこ)の歌

万葉集から、但馬皇女の歌です。天武天皇の皇子と皇女で異母きょうだいである穂積皇子と但馬皇女が恋に落ち、人々のうわさになっているさなかに詠まれたとされるもので、ひと夜をともに過ごした後、人目につかないよう、朝の川を渡って帰る様子をうたったとも、あるいは何を言われても自分は恋の障害の象徴である「川」を渡ります、という強い気持ちをうたったものともいわれています。

翻って今、メディアでは、様々な形の恋愛がときにバッシングの対象として話題にされています。しかし、向けられた言葉の間からこぼれおちている何かがあるかもしれない……。そのような視座から、この連載短編小説「朝川渡る」の企画は始まりました。

1300年前と同じように、いま、朝、川を渡るような思いで恋を紡いでいるすべての人に。作家の央橙々(おう・だいだい)さんが、日常の中の小さな「朝川」の物語を紡ぎ、写真家・井上佐由紀さんの写真と一緒にお届けします。皆さまのご感想、思い出に残る恋、「朝川」体験も、ぜひお聞かせください

    ◇
>>第3話から続く


「辻征夫(つじゆきお)の詩集、渋いな?」
「そっち?」
「え、そっちってなに」
「あいや。こんな古い人、よく知ってるね」
「近所の古本屋で買ったんだ。巻末に、手紙が載ってるでしょ? 詩人の友達に、就職が内定した大学4年の辻征夫が送ったやつ。僕はこの青春を捨てなければならない。何事かが始まるのは、いつも何事かが終わった時点からです。これを殺し、ふんづけ、自分で自分を踏み固め、そこから10年20年という歳月を始めよう。たしかそんな文言。ふんづけってのが印象的で大好きなの。これ読むといつも新しい気持ちになれるしね」

 詩人の言葉を暗記している成人男性(子どもでも知らないが)に会ったのは初めてだ。私なぞ、取材した俳人が辻征夫を尊敬しているというので資料として買ったに過ぎない。それにしても、自分を奮い立たせるのに、詩を用いるならいが浮世離れしている。

 僅(わず)かな沈黙にはっとしたように、彼は夜明けのおしゃべりのまとめにかかった。
「ごめんね、ついぺらぺらと。またマックで困ったことがあったら連絡くれたらいいよ。よかったらメアド教えて。いつでもレスキュー隊発動します」

 今日は本当にありがとう、何度お礼を言っても足りないくらいですと言うと、神妙な顔になった。
「仕事を立ち上げて3年経つし、会社員時代、編集の女性たちのハードワークぶりは知っているつもりだったけど、こんな夜中に必死で一人で仕事に打ち込んでいる姿を初めてみたので、なんというかちょっとしびれた。かっこいいよやよいさん」

「そんなふうにいわれたの初めてだな。……私、そんなに必死に見えた?」
「見えた見えた。あと5時間でなんとかしてください。人に迷惑をかけるから直らないと絶対に困るんですってこう、眉間をこんなふうに鬼の形相で」
 人差し指を自分の眉の両端に当て、ぎゅっと真ん中に寄せてみせる。

「守時さん、ひどいなーもう。デザイナーさんと著者と印刷所のスケジュールを狂わすので、何があっても死守しなきゃなの。本当に助かりました。あの…、もしよかったらお礼に今度ランチでもおごらせてもらえません? D社の近くのビストロサンクとか」
「D出版の人に会っちゃうじゃん。よーし甘えよ。俺が学生時代から通ってる神楽坂のおでん屋で」

 警戒心と嬉しい気持ちと、ふたつの気持ちがマーブル模様みたいに混じった。
 あのとき、思わず自分から誘ったのは、苦しいときにさっそうと暗闇のむこうに現れパソコンを蘇らせた彼が、スキー場でだけ素敵に見えるゲレンデマジックだったのか否かを確かめたいと思ったのと、詩人の話をもっと聞いてみたくなったからだ。

 無事、ラフのデータをデザイン事務所に送った朝7時、起きてきた亮一に「夜、誰かと話してた?」と怪訝(けげん)そうに聞かれたのだった。事の顛末を説明すると、「あー俺マックだめだから起こされないでよかったー」と心の底からホッとした顔になった。その横顔とともに、ネットを通した奇妙な守時との出会いの一夜を印象深く覚えている。

(第5話に続く)

皆さまのご感想、思い出に残る恋、「朝川」体験のご投稿を、お待ちしております。

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朝川渡る

PROFILE

  • 央橙々

    小説『セカンド・ラッシュ』(『サンキュ!』ベネッセコーポレーション)にて作家デビュー。

  • 井上佐由紀(写真)

    1974年福岡県柳川市出身。東京都在住。写真家。九州産業大学芸術学部卒業。写真スタジオ、アシスタントを経て独立。現在はライフワークとして生まれたばかりの赤子の目を撮影しています。うどんとコーヒーがすき。
    コレクション:フランス国立図書館、サンフランシスコ近代美術館
    http://inouesayuki.com/ph/

弥生坂(いやおひざか) 3

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