朝川渡る

弥生坂(いやおひざか) 5

連載短編小説「朝川渡る」5人めの物語、「弥生坂(いやおひざか)」を、12話にわたりお送りします。

第1話 第2話 第3話 第4話 第5話 第6話 第7話 第8話 第9話 第10話 第11話 第12話

    ◇

『夜の坂の写真、ありがとう!』
『写真をながめながらたくさん深呼吸したよ。仕事場の窓からは月が見えないから』
『昨夜はこんなに大きくて玉子色の月だったんだね。感動』

 守時に、立て続けに3本メールを送り、スマホの画面を閉じた。カーテンの隙間から朝の光が漏れている。
 徹夜までしてやりたい仕事なのか心もとないが、脳が疲労していて今は考えたくない。
 寝室に行くと、亮一と日菜子がダブルベッドの端に、猫のように丸まって寝ていた。シーツのひとり分の余白に、ごめんと思いつつ、日向の匂いのする娘の髪にそっとキスをする。

 リビングの窓を開け、キッチンに立つ。昨夜ゆっくり相手をできなかったかわりに、亮一と日菜子においしい味噌汁を作ろう。
 守時からはもう返信が4通きていた。彼も寝ていないらしい。

『おつかれさま。お仕事終わった?』
『あの写真は弥生坂。ここ通るたび、自動的にやよいを思い出すんだ』
『名にしおふ春に向ふが岡なれば 世にたぐひなき花の影かな』
『↑坂にある水戸藩主・徳川斉昭が詠んだ歌。いいっしょ』

 徳川斉昭が歌に詠んだ景色を、守時と見ることができたらどんなに楽しいだろう。互いに毎日当たり前に見ているものを、見ることができない。昨夜、写真を撮りに出たとき、彼はどんな服を着ていたんだろう。その歌碑まで何分くらい歩くんだろう。
 ただ、空は続いている。ひとつの空の下にいるという小さな喜びを拠りどころにして、私達は、想像力で一緒に過ごせない時間を補い合っている。それでも、たかだか坂道を一緒に歩くような簡単なこともできないのかと、ときどきたとえようのない無力感に襲われる。あらかじめわかっていたはずの痛みは、想像より鈍く長く終わりがない。

『その坂で私を思いだしてくれるシステム、めっちゃ嬉しい!』
『でも歌は季節外れ過ぎ!? 笑』

 しばらくすると、守時から長い返信が来た。
『歌には、“やよいの十日さきみだるさくら”っていう前書きがあるんだ』
『徳川斉昭公のお屋敷にこの歌碑があったから、弥生っていう名前がついたんだって』
『で、明治に土器がこのエリアから出土して、弥生式土器って命名されたんだよ』

 弥生式土器に徳川公。朝から、やよいの頭はタイムトンネルの中で混乱気味だ。濡れた指を布巾で拭きながら、スマホの画面を滑らせる。『知らなかったー』
 彼の言葉が発光しながら浮かび上がるのを待つ。やよいはこの刹那が好きだ。誰かを思って待つ、ただそれだけのために在る時間が。

『やよいって、物事の始まりにからんでてホントにいい名前だなあって思った』

 小さい頃、父に、「やよい」には、「草弥(くさい)や生(お)ひ」という意味があり、芽吹きや始まりに由来するところから命名したんだよと聞いたのを久々に思い出した。下の名前で呼ばれなくなってずいぶん経つ。名前を褒められるのはこれほど嬉しい気分だったのか。

 文化鍋で炊く米が噴いている。後ろ髪を引かれる思いで、『うれしい!』のスタンプを一つ押して、つかの間のおしゃべりの幕引きをした。たわいない記号ひとつでも、小さな端末は、言外の想いを運ぶあたたかなツールになる。

 昆布とカツオを網ですくっていると、「最近、携帯よく見てんね」と亮一がぬっと現れて言うので息を呑(の)んだ。

第6話に続く

皆さまのご感想、思い出に残る恋、「朝川」体験のご投稿を、お待ちしております。

    ◇

人言(ひとごと)をしげみ言痛(こちた)みおのが世に
いまだ渡らぬ朝川渡る

万葉集 但馬皇女(たじまのひめみこ)の歌

万葉集から、但馬皇女の歌です。天武天皇の皇子と皇女で異母きょうだいである穂積皇子と但馬皇女が恋に落ち、人々のうわさになっているさなかに詠まれたとされるもので、ひと夜をともに過ごした後、人目につかないよう、朝の川を渡って帰る様子をうたったとも、あるいは何を言われても自分は恋の障害の象徴である「川」を渡ります、という強い気持ちをうたったものともいわれています。

翻って今、メディアでは、様々な形の恋愛がときにバッシングの対象として話題にされています。しかし、向けられた言葉の間からこぼれおちている何かがあるかもしれない……。そのような視座から、この連載短編小説「朝川渡る」の企画は始まりました。

1300年前と同じように、いま、朝、川を渡るような思いで恋を紡いでいるすべての人に。作家の央橙々(おう・だいだい)さんが、日常の中の小さな「朝川」の物語を紡ぎ、写真家・井上佐由紀さんの写真と一緒にお届けします。皆さまのご感想、思い出に残る恋、「朝川」体験も、ぜひお聞かせください

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朝川渡る

PROFILE

  • 央橙々

    小説『セカンド・ラッシュ』(『サンキュ!』ベネッセコーポレーション)にて作家デビュー。

  • 井上佐由紀(写真)

    1974年福岡県柳川市出身。東京都在住。写真家。九州産業大学芸術学部卒業。写真スタジオ、アシスタントを経て独立。現在はライフワークとして生まれたばかりの赤子の目を撮影しています。うどんとコーヒーがすき。
    コレクション:フランス国立図書館、サンフランシスコ近代美術館
    http://inouesayuki.com/ph/

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