朝川渡る

弥生坂(いやおひざか) 7

連載短編小説「朝川渡る」5人めの物語、「弥生坂(いやおひざか)」を、12話にわたりお送りします。

第1話 第2話 第3話 第4話 第5話 第6話 第7話 第8話 第9話 第10話 第11話 第12話

人言(ひとごと)をしげみ言痛(こちた)みおのが世に
いまだ渡らぬ朝川渡る

万葉集 但馬皇女(たじまのひめみこ)の歌

万葉集から、但馬皇女の歌です。天武天皇の皇子と皇女で異母きょうだいである穂積皇子と但馬皇女が恋に落ち、人々のうわさになっているさなかに詠まれたとされるもので、ひと夜をともに過ごした後、人目につかないよう、朝の川を渡って帰る様子をうたったとも、あるいは何を言われても自分は恋の障害の象徴である「川」を渡ります、という強い気持ちをうたったものともいわれています。

翻って今、メディアでは、様々な形の恋愛がときにバッシングの対象として話題にされています。しかし、向けられた言葉の間からこぼれおちている何かがあるかもしれない……。そのような視座から、この連載短編小説「朝川渡る」の企画は始まりました。

1300年前と同じように、いま、朝、川を渡るような思いで恋を紡いでいるすべての人に。作家の央橙々(おう・だいだい)さんが、日常の中の小さな「朝川」の物語を紡ぎ、写真家・井上佐由紀さんの写真と一緒にお届けします。皆さまのご感想、そして皆さまの「朝川」体験も、ぜひお聞かせください

    ◇
>>第6話から続く


 その日、彼が差し出した小さな包みが、出会ってから1年半で初めてもらう贈り物になった。球形のガラスの中できらきらと粉雪が舞う小さなスノードームだ。

「イルカが泳いでるのもあったんだけどさ、北海道ならやっぱ雪だるまだよなって思って。それが夏はなかなか売ってないんだよー」と彼は笑った。三角屋根の教会の傍らに雪だるまが佇む幻想的なウォーターグローブの中の街。

 妻にはなんと言って買ったのか、一緒にいたのか。無粋なことは聞くまい。私のいない場所で一瞬でも私を思い出してくれた。それだけで十分だ。大きな体をした彼が、お土産屋でスノードームを手にとって覗き込んだり、揺らしている様子を想像したらおかしくて、嬉しくて体中の細胞が緩む。

「ありがとう。夏に見る雪も涼しげでいいもんだね、大事にするよ」
「あっちで、気がつくと俺、東京の天気予報見てるんだよね。明日は雨だけどやよいは執筆かな、取材じゃないといいなとか思いながら」

 この年になると欲しいものの多くは頑張れば買えるけれど、これだけは絶対に買えないものだ。暗闇の宇宙に放り出されても、このキューブの光が道標になる。もう大丈夫。
 と、守時は少し真面目な顔になった。

「地方はどこもそうなんだけど、北海道も車がないと本当に移動が大変なんだよね。それで高齢者の事故のニュースとか見ながら考えてたんだけど、やよいに万一のことがあっても、俺、誰からも知らされないんだね。それって途方もなく悲しいことじゃない?」

 なにをいまさら。悲しいという言葉に胸の奥をぎゅうっとつかまれながら、わたしは半ばぼんやりしてしまった。──彼は微妙にずれている。

 いつもそうだ。そのおかげで、悩みや愚痴を話すと、けっこう容易に吹き飛ぶ。「心配してもしなくても、明日は同じ朝が来るんだから、いまブルーになってたら損でしょ」といわれたときは、妙に納得したものだ。
 詩みたいなフラジャイルなものを強く信頼する傍らで、感情を合理的に理屈で割りきる。少しずれた独特のバランスに、本当は悩みに対して具体的な意見が欲しかったのに、本題を忘れてしまう。たった今の時間をどんな気分で過ごすと得かなんて、ずれた視点だからこそ生まれる発想だ。

 だが、今朝の言葉には、彼のずれを笑い飛ばせない何かが私の胸に澱(おり)のように沈殿した。万一のことってなに? このざわざわしたものはどこからくるんだろう。

(第8話に続く)

*皆さまのご感想や、「朝川渡る」体験のご投稿を、お待ちしております。

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朝川渡る

PROFILE

  • 央橙々

    小説『セカンド・ラッシュ』(『サンキュ!』ベネッセコーポレーション)にて作家デビュー。

  • 井上佐由紀(写真)

    1974年福岡県柳川市出身。東京都在住。写真家。九州産業大学芸術学部卒業。写真スタジオ、アシスタントを経て独立。現在はライフワークとして生まれたばかりの赤子の目を撮影しています。うどんとコーヒーがすき。
    コレクション:フランス国立図書館、サンフランシスコ近代美術館
    http://inouesayuki.com/ph/

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