朝川渡る

弥生坂(いやおひざか) 8

連載短編小説「朝川渡る」5人めの物語、「弥生坂(いやおひざか)」を、12話にわたりお送りします。

第1話 第2話 第3話 第4話 第5話 第6話 第7話 第8話 第9話 第10話 第11話 第12話

    ◇

 10日後、私達は自宅から3つ離れた駅のスペインバルでテーブルを囲んでいた。互いにいつにもまして饒舌なのは、肝心なことに触れたくないからだ。

 赤ワインのボトルが空になり、ムール貝やにんにくやローリエの複雑な香りが混じり合ったパエリヤが運ばれるころ、こらえきれずに私は切り出した。

「この間言った、万が一って、私が死んだらってこと?」
「うん、その逆で俺が死んだらってこともあるけどね。俺たちのことを誰ひとり知らないって、こんなに心もとないものなんだなって、事故や災害のニュースを見るたび思うよ」

 それはとうに覚悟していたこと。私は、いつも洗濯をしながら三つ先の家事を頭の中で段取っているように、この恋の終え方をどこかで考えている。

「なんでまた急に、そんなふうに思ったの?」
「先週、メンテを担当している常連の会社のお客さんが、くも膜下で出張先で倒れたんだよ」
「その人は既婚者で、愛人がいて、でも彼女は何も知らずお葬式に出られなかったとか?」
「いや、一命をとりとめて2日後には意識が戻った」
「あ、ごめん。ひどいこと言っちゃった」

「ううん。助かったのは良かったんだけど……、携帯やパソコンを全部家族に見られたんだって」
「ロックかけてなかったの?」
「右手のどっかの指でタッチID。奥さんが彼の指を1本ずつあてていったんだね。そもそも奥さんも子どもも、父親がどの指でロックを掛けているかなんて最初から知っていたらしい。家族なんてそんなもんだよね。寝ている間に全部洗いざらい見られて、意識が戻ったら地獄が待っていたってわけ」

 うぐ。サフランライスが喉につかえる。危機管理をちゃんとしろと言いたいのだろうか。たまにしか会えない日にそんな話題を引っ張り出した自分を悔いた。この時間をひねりだすまでに小さな嘘を積み上げてきた。せめて二人でいるときくらいは、だれかに嘘をついていることを忘れたい。私は手を止め、彼をぼんやり見つめる。

「それ聞いて俺、やよいのこと思いだした。やよいはきっとそういうこと、ちゃんとしてるんだろうな。LINEも定期的に消してるって、前言ってたしなって」

 心配性の私は、守時の連絡先も女性の名で登録しているし、パスコードも定期的に変えてる。タッチIDはそもそも使っていない。私のはてな顔に気づいて、彼は言葉を足した。

「それはもちろん正しいんだろうけど、せつなくなっちゃったんだよね。俺が死んだら、やよいとつながっていたことの全部が消えてなくなっちゃう。フェイスブックで“友達ですか?”ってやよいの名前が出てくんの。友達じゃないよって言い返したくなる。ばかみたいだけどさ、やりきれないなって思った」

 ばかばかしいほど真っ直ぐな瞳で、少女漫画みたいなことを言う男を前に、とまどった。

(第9話に続く)

*皆さまのご感想や、「朝川渡る」体験のご投稿を、お待ちしております。

    ◇

人言(ひとごと)をしげみ言痛(こちた)みおのが世に
いまだ渡らぬ朝川渡る

万葉集 但馬皇女(たじまのひめみこ)の歌

万葉集から、但馬皇女の歌です。天武天皇の皇子と皇女で異母きょうだいである穂積皇子と但馬皇女が恋に落ち、人々のうわさになっているさなかに詠まれたとされるもので、ひと夜をともに過ごした後、人目につかないよう、朝の川を渡って帰る様子をうたったとも、あるいは何を言われても自分は恋の障害の象徴である「川」を渡ります、という強い気持ちをうたったものともいわれています。

翻って今、メディアでは、様々な形の恋愛がときにバッシングの対象として話題にされています。しかし、向けられた言葉の間からこぼれおちている何かがあるかもしれない……。そのような視座から、この連載短編小説「朝川渡る」の企画は始まりました。

1300年前と同じように、いま、朝、川を渡るような思いで恋を紡いでいるすべての人に。作家の央橙々(おう・だいだい)さんが、日常の中の小さな「朝川」の物語を紡ぎ、写真家・井上佐由紀さんの写真と一緒にお届けします。皆さまのご感想、そして皆さまの「朝川」体験も、ぜひお聞かせください

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朝川渡る

PROFILE

  • 央橙々

    小説『セカンド・ラッシュ』(『サンキュ!』ベネッセコーポレーション)にて作家デビュー。

  • 井上佐由紀(写真)

    1974年福岡県柳川市出身。東京都在住。写真家。九州産業大学芸術学部卒業。写真スタジオ、アシスタントを経て独立。現在はライフワークとして生まれたばかりの赤子の目を撮影しています。うどんとコーヒーがすき。
    コレクション:フランス国立図書館、サンフランシスコ近代美術館
    http://inouesayuki.com/ph/

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