朝川渡る

弥生坂(いやおひざか) 9

連載短編小説「朝川渡る」5人めの物語、「弥生坂(いやおひざか)」を、12話にわたりお送りします。

第1話 第2話 第3話 第4話 第5話 第6話 第7話 第8話 第9話 第10話 第11話 第12話

    ◇

 どういうあいづちが正しいんだろうとさっきから私は考え続けている。どんな言葉でも足りないし、本当ではない気がする。だからつぶやいた。

「パエリア、食べないと冷めちゃうよ」
「俺、冷めた飯も好き。知らなかった?」

 ワイシャツ以外のあなたの普段着も知らない。日曜はどんな服を着るのか、朝はどんなマグでコーヒーを飲むのか。血液型、卒業した小学校も。何も知らない。

 この恋愛は、どっちかが寂しいと言ったら負けだ。言った端から、相手を苦しめるナイフになる。だから、どうしてメールをくれないの? 会ってくれないの? を、胸の奥の奥で冷凍してきた。どんなに上手に間柄を紡いでも、いつか別れがくることを知っているから、感情を真綿でくるむ。大丈夫大丈夫と言い聞かせて、見ぬふりをする。そうやってなんとか薄氷の上で楽しく踊ろうとしているのに、簡単に「寂しい」なんて言わないでほしい。

「すみません。エスプレッソのダブルを。守時は? あなたがいま飲みたいもの、私わからないから」
 ウェイターを呼び、注文をした。私はたぶん今、最高に意地悪な顔をしている。
「僕はオルホをください」と、珍しく度数の高い食後酒を頼んだ。
 ふたりともいつもは、ミルクをたっぷり足したカフェ・コン・レチェを飲む。しばらくの沈黙のあと、オルホがごくりと彼の喉を鳴らした。

「やよい、お子さんが巣立ったら、いつか離婚してくれない?」

 え? すぐに言葉が出ない。体温が急降下していく。
「それはええっと、再婚しようってこと?」
「ううん」

 ますます意味がわからない。宇宙人と話しているみたいだ。いつもそうするように、私の手にそっと重ねようとした彼の手を、思わずよけてしまった。瞳が寂しそうな色を帯びる。ごめんと私はつぶやいた。

「俺の方こそ驚かせてごめん。俺達の付き合いが愛なんだか恋なんだか、自分が何を求めているのか、いままで考えたことがなかったんだ。二人でいると楽しい。それだけで十分幸せだったから。でもくも膜下出血の人のとき、やよいのことが真っ先に浮かんだ。それから、ずっとこの先のふたりの人生を考えている自分に、俺自身も驚いてる。ね、人生でだれかを2回、真剣に愛しちゃいけないものかな」

「でも、再婚じゃないんだよね?」
「お嬢さんが巣立つ頃に結婚という形にしたら、親や親戚づきあいをお互いにもう一つ背負うことになっちゃうから」

 奥さんをふみつけてリセットするの? 唐突で、あまりに現実味がなさすぎて、乾いた砂のようにさらさらと嬉しいはずの彼の言葉が指の隙間からこぼれ落ちた。そこまで言うほど私達は愛し合ってきたろうか。一度でも将来の話などしたことがないのに何を根拠に。

 と、10代の頃よく見た道化師姿のもうひとりの自分が天井から見下ろして、お告げのようにささやく。あなたはスペースシャトルに乗るべきではなかったのです。

第10話に続く

*皆さまのご感想や、「朝川渡る」体験のご投稿を、お待ちしております。

    ◇

人言(ひとごと)をしげみ言痛(こちた)みおのが世に
いまだ渡らぬ朝川渡る

万葉集 但馬皇女(たじまのひめみこ)の歌

万葉集から、但馬皇女の歌です。天武天皇の皇子と皇女で異母きょうだいである穂積皇子と但馬皇女が恋に落ち、人々のうわさになっているさなかに詠まれたとされるもので、ひと夜をともに過ごした後、人目につかないよう、朝の川を渡って帰る様子をうたったとも、あるいは何を言われても自分は恋の障害の象徴である「川」を渡ります、という強い気持ちをうたったものともいわれています。

翻って今、メディアでは、様々な形の恋愛がときにバッシングの対象として話題にされています。しかし、向けられた言葉の間からこぼれおちている何かがあるかもしれない……。そのような視座から、この連載短編小説「朝川渡る」の企画は始まりました。

1300年前と同じように、いま、朝、川を渡るような思いで恋を紡いでいるすべての人に。作家の央橙々(おう・だいだい)さんが、日常の中の小さな「朝川」の物語を紡ぎ、写真家・井上佐由紀さんの写真と一緒にお届けします。皆さまのご感想、そして皆さまの「朝川」体験も、ぜひお聞かせください

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朝川渡る

PROFILE

  • 央橙々

    小説『セカンド・ラッシュ』(『サンキュ!』ベネッセコーポレーション)にて作家デビュー。

  • 井上佐由紀(写真)

    1974年福岡県柳川市出身。東京都在住。写真家。九州産業大学芸術学部卒業。写真スタジオ、アシスタントを経て独立。現在はライフワークとして生まれたばかりの赤子の目を撮影しています。うどんとコーヒーがすき。
    コレクション:フランス国立図書館、サンフランシスコ近代美術館
    http://inouesayuki.com/ph/

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