朝川渡る

弥生坂(いやおひざか) 10

連載短編小説「朝川渡る」5人めの物語、「弥生坂(いやおひざか)」を、12話にわたりお送りします。

第1話 第2話 第3話 第4話 第5話 第6話 第7話 第8話 第9話 第10話 第11話 第12話

人言(ひとごと)をしげみ言痛(こちた)みおのが世に
いまだ渡らぬ朝川渡る

万葉集 但馬皇女(たじまのひめみこ)の歌

万葉集から、但馬皇女の歌です。天武天皇の皇子と皇女で異母きょうだいである穂積皇子と但馬皇女が恋に落ち、人々のうわさになっているさなかに詠まれたとされるもので、ひと夜をともに過ごした後、人目につかないよう、朝の川を渡って帰る様子をうたったとも、あるいは何を言われても自分は恋の障害の象徴である「川」を渡ります、という強い気持ちをうたったものともいわれています。

翻って今、メディアでは、様々な形の恋愛がときにバッシングの対象として話題にされています。しかし、向けられた言葉の間からこぼれおちている何かがあるかもしれない……。そのような視座から、この連載短編小説「朝川渡る」の企画は始まりました。

1300年前と同じように、いま、朝、川を渡るような思いで恋を紡いでいるすべての人に。作家の央橙々(おう・だいだい)さんが、日常の中の小さな「朝川」の物語を紡ぎ、写真家・井上佐由紀さんの写真と一緒にお届けします。皆さまのご感想、そして皆さまの「朝川」体験も、ぜひお聞かせください

    ◇
>>第9話から続く

10
 連絡を控えて半月が経つ。
 彼は、くも膜下の知人の件より少し前から、これからの人生を考えていたのだと、たくさんの言葉をメールで補足してきた。
 私が返さなくても、自分のペースで思いを綴ってくる。前からそういう人だった。こんな状況でも、私になくて彼にあるものが少し眩しい。

『今日は新月だよ。やよいはどんな願いを託した?』
『俺は、自分にもしものことがあったとき、別の誰かを愛していたと家族が初めて知るような、みっともない死に方はしたくないって強く思うよ』
『これはエゴかな。でも正直な気持ち』

 たかがトイレでメールを打つような後ろ暗さでさえ、永遠に持ち続けるのは私だって憂鬱(ゆううつ)だ。しかし、彼は気づいているだろうか。くも膜下で倒れた男の家庭外の恋愛を知って傷ついた妻と、自分の妻とを重ね合わせているのを。裏切り続けたまま、自分が死んだら、妻に消えない遺恨を残す。誰かの心にタトゥーのような傷を刻みたくないのだきっと。

 けどね、と釘を刺したくなる。このつきあいはパーツであって、オールになってはいけないんだよ。

 言葉にできないもやもやをとりあえずいったん風呂場で流し、ベッドに入った。と、目の前に重みがかかり、生暖かな粘膜が唇を塞いだ。何カ月ぶりか思い出せないほど久しぶりの亮一のキス。
 今日が新月なら、と私は虚しく祈った。どうか彼の手がその先に進みませんように。

    ◇

 1カ月会わなかっただけなのに、スペインバルに現れた守時をみて、不覚にも泣きそうになった。頭をすくめ、軒をくぐるようにして店に入るしぐさが、全力で懐かしい。

『お返事もせずにごめんね。会って話したいです』と誘ったのは私だ。毎日来ていたメールが隔日になり、そのうち週に2~3度になっただけで、頭をかきむしりたくなるほど不安になった。会いたいと、自分から言ったのは初めてである。これまで重いと思われたくない一心で、誘わなかった。

 あの日、退屈と安らぎがせめぎ合う亮一との一夜を過ごし、自分も率直に伝えなければならないと感じた。何かを終えなければ新しいことを始められないのなら、私は始めなくていいと。いま自分ができる最大の誠実は、正直に伝えることだけだ。

 だが顔を見たら、用意してきたたくさんの言葉が吹っ飛んだ。今すぐその胸に顔を埋め、大きな手のひらに包まれたい。柔らかな唇に触れたい。そればかりを考えてしまう。

「逢えてよかった」と開口一番、彼は微笑んだ。私をぐるぐるに縛り付けていた感情がほどけた。
 私達は、たこのアヒージョやピクルスやムール貝のワイン蒸しやアンチョビポテトを次々頼んで、がむしゃらに食べ続けた。
「ね。このあとカラオケに行かない?」と、彼がつぶやく。

 私は、友達の間でネタになるほど、あるいは初対面の人からは失笑をかうほど歌が下手で、カラオケが嫌いなことを彼は知っているはずだ。彼の前では、去年の誕生日に、あまりに楽しくて2軒目のスナックで1度歌ったきりだ。

「守時が行きたいならいいよ。私は歌わないけど」
「俺、やよいの歌、好きだよ。音痴なのに、両手でマイク握って一生懸命歌っている姿がかわいいもん」
「音痴って。……守時は奇特な人ね」

「やよいはいつも前のめりで見切り発車。下手でも挑戦するじゃん。そういうのみてると、チャレンジして失敗したことは、失敗に入らないんだよなって思う」
「そんなこと言われたの初めてだよ。あのさ、離婚してなんて、冗談でしょ? 私、あなたのほんの一部しか知らない。奥さんのことも実家のことも、知らないことだらけだよ」
「あえて尋ねないようにしていたのは気づいてた。僕は本気でそう考えた」

 娘が巣立ったからと言って家族の縁が切れるわけではない。彼に、自らが発した言葉の重さが本当に理解できているんだろうか。彼がスポイトで落とした1滴のシミがみるみる拡がり、細胞に滲み出していく。

「夫とは家族で、男女に戻れなくなってしまったけど、縁を切りたいと思ったことは一度もなくて……。こんなおつきあいしていて偉そうに言える立場じゃないんだけど」

「じゃあ、やよいが事故か何かで命を落としたとして、自分の他に恋人がいたと知ったらご家族は傷つかない? 俺は、俺たちのために、妻にも君の家族にもそういう思いをさせたくないなって思う」

 感情が曲がりくねった袋小路に迷い込んでゆく。このまま一緒にいたら、取り返しのつかない言葉を言ってしまいそうで怖い。

 その日、カラオケにも行かず、駅のそばの証明写真のボックスで小さなキスを一つして別れた。

第11話に続く

*皆さまのご感想や、「朝川渡る」体験のご投稿を、お待ちしております。

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PROFILE

  • 央橙々

    小説『セカンド・ラッシュ』(『サンキュ!』ベネッセコーポレーション)にて作家デビュー。

  • 井上佐由紀(写真)

    1974年福岡県柳川市出身。東京都在住。写真家。九州産業大学芸術学部卒業。写真スタジオ、アシスタントを経て独立。現在はライフワークとして生まれたばかりの赤子の目を撮影しています。うどんとコーヒーがすき。
    コレクション:フランス国立図書館、サンフランシスコ近代美術館
    http://inouesayuki.com/ph/

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