鎌倉から、ものがたり。

葉山と宮沢賢治を結ぶ“注文の多い”店「ヒマダコーヒー」

>>「ヒマダコーヒー」前編から続きます

 葉山町堀内にある「ヒマダコーヒー」。ここは、店主の齊藤啓介さん(40)が、丁寧に淹(い)れる「珈琲」を味わうだけでなく、暮らしの中にある美意識を、ゆっくりと取り戻す空間でもある。

 その美意識の底にあるのは、視覚的なアート性というよりも、多分に文学的、ものがたり的なものだ。

 壁際に置かれた机には、井伏鱒二、清水幾太郎、萩原葉子らの本。
 手洗い場に設けられた琺瑯(ほうろう)の石鹸水タンク。かそけき光を放つ電灯。

 そして、厨房(ちゅうぼう)奥のパントリー(収納庫)に並ぶ食品や雑貨。それらひとつひとつの眺めが、この店では詩的なニュアンスとともに、独自のストーリーを放つ。

 大学時代に宮沢賢治を専攻したという齊藤さんの中に、賢治の世界に通じる、壊れやすく、無垢な揺らぎがあるのだろう。葉山という明るい海辺のまちで、そのような感覚に触れることに、一種の刺激を感じる。

 齊藤さんの感覚を語るとき、彼がコーヒーを修業した逗子の店「cafe coya(カフェコヤ)」を抜きにすることはできない。

 2010年にコヤの店主、西郡潤士さんと根本きこさん夫妻から声をかけられ、あこがれの店で働きはじめた。当初、コーヒーを淹れるときには、手が緊張でふるふると震えたという。

「潤士さんときこさんの感性には、もとから敬意を持っていましたが、スタッフになって、それがさらに大きくなりました。彼らが触れるものすべてが、意識を研ぎ澄ました中で選ばれている。それでいて、人にも、モノにも、さりげなく、やさしい愛情をかけてくれるのです」

 その「緊張と弛緩」のバランスを、齊藤さんは「あなたはどう生きるのか?」という問いかけだと思った。

 2011年3月11日、東日本大震災の発生を機に、夫妻は店を閉めて沖縄に移住。それまでの日常をにわかに失った齊藤さんは、屋久島(鹿児島県)と松本(長野県)でふた月を過ごした後、逗子に戻り、呆然としたまま日々を過ごすことになる。

 cafe coyaの精神を受け継ぎたい、という思いはすでに芽ばえていたが、なかなか次に進めなかった。1年、2年、3年、と月日が過ぎる中で、ある日、海岸沿いのトンネルを自転車で抜けたときに、「再来年の2月に場所が見つかる」という予感を得た。

 それでも積極的な行動に出たわけではなかった。その「再来年」にあたる16年2月も、何ごともないまま終わろうとしていた。

「ところが2月28日に、以前に訪ねていた不動産屋さんから、『葉山に物件が出たよ』という連絡を受けたんです。何なの、このタイミングは!? と、驚きました」

 その物件がまさしく現在の店となる、葉山町堀内の古い木造家屋の1階路面。お膳立ては揃(そろ)った。やるしかない。躊躇(ちゅうちょ)なく契約し、同年9月に「ヒマダコーヒー」を開業した。

 齊藤さんの店では、メニューの最初に「店内ではお閑かに」と記されている。「お閑かに」は「おしずかに」と読む。つまり、「閑(ヒマ)」であることが、しずけさに通じるわけだ。

 ここでは「お喋りは少し声をひそめて」「図書館や博物館でのこわいろで」とも、求められる。宮沢賢治の『注文の多い料理店』を思い出さずにいられないが、もちろん、その先に恐ろしい童話的展開が待っているのではない。

 それらの言葉は、齊藤さんが店を訪れる人に、おいしい「珈琲」とともに、こころ穏やかで安寧の時間を提供する覚悟なのである。

HIMADA COFFEE(ヒマダコーヒー)
神奈川県三浦郡葉山町堀内975

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PROFILE

  • 清野由美

    ジャーナリスト。1960年、東京都生まれ。東京女子大学卒。慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科修士課程修了。英ケンブリッジ大学客員研究員。英国留学、出版社勤務を経て、91年にフリー。先端を行く各界の人物インタビューとともに、時代の価値観や感覚、ライフスタイルの変化をとらえる記事を「AERA」「朝日新聞」「日経ビジネスオンライン」などに執筆。著書に『新・都市論 TOKYO』『新・ムラ論 TOKYO』(隈研吾と共著・集英社新書)、『ほんものの日本人』(日経BP社)、&w連載「葉山から、はじまる。」を1冊の本にまとめた『住む場所を選べば、生き方が変わる――葉山からはじまるシフトチェンジ』(講談社)など。

  • 猪俣博史(写真)

    1968年神奈川県横須賀市生まれ。慶応義塾大学商学部卒業。卒業後、カナダを拠点に世界各地を放浪。帰国後、レコード会社、広告制作会社勤務などを経て1999年にフリーに。鎌倉、葉山を拠点に、ライフスタイル系のほか、釣り系媒体なども手がけ、場の空気感をとらえた取材撮影を得意とする。本連載のほか、&travelで「太公望のわくわく 釣ってきました」の執筆と撮影を担当。神奈川県三浦半島の海辺に暮らす。

逗子のcafe coyaから始まった。葉山「ヒマダコーヒー」

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