朝川渡る

弥生坂(いやおひざか) 11

連載短編小説「朝川渡る」5人めの物語、「弥生坂(いやおひざか)」を、12話にわたりお送りします。
第1話 第2話 第3話 第4話 第5話 第6話 第7話 第8話 第9話 第10話 第11話 第12話

    ◇

11
 月末の締切週がやってきた。少し時間があると、風にたゆたう不安定な小舟のようにゆらゆらと守時とのことを考え続けてしまうので、忙しいくらいがちょうどいい。彼はなぜそうまで考えるようになったかがいちばんわからなくて悶々とする。自分が、誰かの人生に必要だといわれるなんて想像もしていなかった。

 締切週のお決まりメニュー、ハヤシライスとツナサラダを作り、日菜子の面倒は亮一にまかせて2畳の仕事部屋にこもる。今日は介護施設のチラシのコピーを書き上げねばならない。

 しりしりとシャープペンシルの滑る音が、カーテンの隙間からこぼれる夜。時々思い出したように鳴るエアコンの室外機の音だけが相棒のこんな午前2時は、しかしやっぱり守時を思い出してしまう。

『そろそろ半徹シーズンだね。がんばってる?』
 夜の使者のように、守時からメールが届いた。彼も起きているのか。このひとつ空の下で。
 あれ以来メールはたわいもない会話をたまにする程度で、激減している。ためらい以上に、嬉しい気持ちがはるかにまさり、思わずすぐ返信をした。
『今日は介護施設のチラシ。半徹1日目でーす』
『俺は営業レポート。ひと区切りついてからでいいからスカイプできる?』
『じゃあジャスト30分後に。ジュース買いにコンビニに行くから、電話して』
『うん。声聞きたい』
『私も』

 携帯電話と財布を抱え、駅の向こう側の遠いコンビニまで夜の散歩に出る。昼間、親子連れで賑わう緑道の小さな人工の川の水面は街灯に照らされながらきらきらと、明日の出番を静かに待っている。川べりに白い小花が揺れる。

 今日は星が多い。東京の星は不思議だ。見ようとしないとその存在さえ気づかない。けれど目を凝らすとちゃんと瞬きも見える。淡く清冽な光は、見ようとする人にだけ輝いてくれる。

 着信音1秒で通話ボタンを押す。街灯が途切れたベンチに腰掛け、私は大好きな人の声に耳を傾ける。

「ひさしぶりだね。元気だった?」
 そんなに気を張っていたつもりはないが、この声を聞くと、ゆるゆるといろんなものがほどけて、心が裸になる。

「うん。ちょっと仕事が詰まっちゃって、今週はあんまり外に出てないの。守時は夏バテしてない?」
「大丈夫。やよいはいま、介護施設だっけ? 書いてるの」
「うん、そう」

 彼はそのまま黙り込んだ。さらさらと小川の流れる音だけが聞こえる。この世界にふたりしかいないみたいに静かだ。何十秒かして「どした?」という私の言葉と「やよいはさ」という夜を斬るような彼の言葉が重なった。

「やよいはさ、友達が少ないって言っていたけど、人の痛みに気づけるすごい才能があるんじゃない?」
「な、なに? 急に」
「俺が最初にレスキューしたとき、大学案内のパンフ作ってたでしょ。あれに保護者向けのキャンパスマップのページがあった」

「保護者向けの地図?」
「大学生の親世代はスマホに慣れてない人もたくさんいるからって、文字も大きくして。やよいらしいなあって思った。あれみて俺の田舎のおふくろのこと思いだしたんだ。入学式のとき俺の大学で迷子になったんだよ。正門はわかるけど東門がぜんぜんわからんって」

 思いつめた声から、いつものやわらかな口調に変わっている。

「徹夜仕事のとき、ベッドのぽっかり空いたスペースを見ると、胸が詰まるっていったよね。途中で子どもに顔を見せると里心がついて、だんなさんを困らせちゃうから娘には会わないようにしてるって。俺には、やよいが人の心に寄り添える人だってわかる。だから惚れたんだ」

 鼻の奥がツンとした。涙で景色がぼやけてくる。こんな夜更けに時々思い出したようにランナーが通り過ぎてゆく。哀れみと好奇心の入り混じった顔でチラチラ見ている。どう見られてもいい。私は鼻をすすりながら言った。
「私ね、自分の大学で10回は迷子になったよ」
 彼は声に出して笑った。きっと電話の向こうであの大好きな笑いジワを目尻にたくわえているんだろう。

「ははは。自分がそうだから困る人の気持ちがわかるんだね。俺も最近、人に対して寛容になってきたなって思う。逃げたり、道理に合わないことをしている人にも、なにか事情があるんだろうって考えるようになった。それはやよいの影響かもしれない」

 この人との別れは、どれだけ泣いたらあきらめがつくんだろう。と、彼は、きっぱり力強い声で言った。
「だから、もう困らせるのはやめたいなって思う」

 沸騰した鍋に差し湯をしたみたいに、心がしんとした。もう漂流したくない。彼に会う前の漂流より、いまのほうが千倍苦しいに違いない。まだ祭りを終わりにしたくない。夜更けの道を彼の声を頼りに歩きたい。外に出られないときは私の目になって弥生坂の写真を撮ってくる男に、もっとありがとうも、愛しているも、言い続けたい。

第12話に続く

*皆さまのご感想や、「朝川渡る」体験のご投稿を、お待ちしております。

    ◇

人言(ひとごと)をしげみ言痛(こちた)みおのが世に
いまだ渡らぬ朝川渡る

万葉集 但馬皇女(たじまのひめみこ)の歌

万葉集から、但馬皇女の歌です。天武天皇の皇子と皇女で異母きょうだいである穂積皇子と但馬皇女が恋に落ち、人々のうわさになっているさなかに詠まれたとされるもので、ひと夜をともに過ごした後、人目につかないよう、朝の川を渡って帰る様子をうたったとも、あるいは何を言われても自分は恋の障害の象徴である「川」を渡ります、という強い気持ちをうたったものともいわれています。

翻って今、メディアでは、様々な形の恋愛がときにバッシングの対象として話題にされています。しかし、向けられた言葉の間からこぼれおちている何かがあるかもしれない……。そのような視座から、この連載短編小説「朝川渡る」の企画は始まりました。

1300年前と同じように、いま、朝、川を渡るような思いで恋を紡いでいるすべての人に。作家の央橙々(おう・だいだい)さんが、日常の中の小さな「朝川」の物語を紡ぎ、写真家・井上佐由紀さんの写真と一緒にお届けします。皆さまのご感想、そして皆さまの「朝川」体験も、ぜひお聞かせください

バックナンバー
朝川渡る

PROFILE

  • 央橙々

    小説『セカンド・ラッシュ』(『サンキュ!』ベネッセコーポレーション)にて作家デビュー。

  • 井上佐由紀(写真)

    1974年福岡県柳川市出身。東京都在住。写真家。九州産業大学芸術学部卒業。写真スタジオ、アシスタントを経て独立。現在はライフワークとして生まれたばかりの赤子の目を撮影しています。うどんとコーヒーがすき。
    コレクション:フランス国立図書館、サンフランシスコ近代美術館
    http://inouesayuki.com/ph/

弥生坂(いやおひざか) 10

トップへ戻る

弥生坂(いやおひざか) 12

RECOMMENDおすすめの記事