目まいがするほどの心地よさ『抽斗(ひきだし)のなかの海』
文: 蔦屋書店 コンシェルジュ

撮影/猪俣博史
作家・朝吹真理子さんのはじめてのエッセー集は、エッセーでありながら詩や小説のような読後感だ。読むうちに書き手との境界があいまいになって、いつのまにかその世界に入り込んでいるような気にさせられる。まるで、波打ち際でたわむれているような心地よさだ。
小説とおなじく、彼女の言葉のたたずまいは美しく、清潔で凜(りん)とした静けさをたたえている。だが題材は多岐にわたり、そこから浮かびあがるのは、意外とおちゃめで思い切りのいい、そして少しだけ不器用かもしれないと思わせる朝吹真理子像だ。
たとえば、夫の不在時に、夫がいるとできないことをしようとして竹串でへそのごま取りをした揚げ句、炎症を起こす。ほかにも、おさない頃から鉱物好きで、親の目を盗んではそれを口にふくんでいたというカミングアウトをしたり。焼き上がってくるたこ焼きをみていて、「宇宙空間からガス惑星ができるまでの、長い歴史を早回しでみているような気になる」と大まじめに語ったり。
心揺さぶる彼女の日常
エッセーという性質上、書かれるのは食べ物や家族のことなどが必然的に多くなるのだが、彼女の日常や個人的な体験であるはずのそれらが、なぜか私の感情を震わせる。私はへそのごまを竹串で取ろうとしたことはないし、鉱物を口に含んだこともなければ、たこ焼きに宇宙を感じたこともない。それなのに、である。
「私は私の領分がすぐに曖昧(あいまい)になる」
「となえるように読んでいると、じぶんの頭のなかで膠(にかわ)のようになっていた思考のだまが、ゆっくりととろけて押し流されてゆく」
「ことばは永遠に尽きることなく、分岐と、増殖とを繰りかえし、いつまでもおわりがない」
それはおそらく、彼女の言葉がもつ「呼吸」や「テンポ」や「波長」が、読み手である私の生理とシンクロし、「ともぶれ(共振)」を起こすからなのだろう。
吉田健一、澁澤龍彦、金井美恵子、大江健三郎、古井由吉、スーザン・ソンタグ……。魅惑的な書き手たちの名前がならぶ、書評とはことなる読書日録。透徹したまなざしを感じさせる将棋感想戦の見学記。伝説のアーティストグループ、ダムタイプのこと。武満徹に感応する耳。時には目玉で音楽を聴くしなやかな想像力。ブルーシートに美を見る目。描写は、ミクロからマクロまで自在に伸縮し、時に対象に憑依(ひょうい)しながら混然一体となる。
それぞれのエッセーには、読み返した「いまのじぶん」による「ちいさな応答」が付されている。コレスポンデンス。それは、過去と現在の照応であり、理性と感性の交感でもある。時間も感情も輻輳(ふくそう)し、増幅されて幾重にも広がっていく。この目まいのするような心地よさは、読んだ人にしか味わえない。
禁欲的な潔さを感じるほどの、黄と青とその諧調による美しい装丁は、「わたしはあなたと交信したい」というメッセージを意味する国際信号旗、つまりシグナルを表したもの。海の上で一艘(そう)の船がこの信号旗をかかげる光景は、作家が小説やエッセーを書いているとき、あたまによぎるイメージそのものなのだそうである。
(文・八木寧子)
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