5分間の物語。

「5分間には、1日がつまっています」元モーグル選手・伊藤みきさんの五感と5分間

長く感じたり、短く感じたり、「5分間」という時間の流れは人によってとらえ方が様々。では、その道の専門家が感じる5分間とは……。人間の感覚を表現する五感とともに、印象的な5分間をふりかえる。

今年5月に引退したフリースタイルスキー・モーグル女子の伊藤みきさん(31)。長野五輪で活躍した里谷多英さんや上村愛子さんに続く選手として、早くから注目を集めていました。

18歳で2006年トリノ五輪に出場すると、3大会連続で五輪代表に。世界選手権では表彰台にも立ちました(2009年にデュアルモーグル、2013年にモーグル・デュアルモーグルで銀メダル)。思い出されるのは、その2013年末に負った右ひざ靱帯(じんたい)の負傷。治療に専念して2014年ソチ五輪出場を目指すも、本番予選直前の公式練習で再びけがを負い、五輪出場はかないませんでした。

「5分間には、1日がつまっています」元モーグル選手・伊藤みきさんの五感と5分間

はじけるような笑顔が素敵な伊藤さんが、五感と5分間を語りました。

【味覚】
現役時代は日本だけでなく、いろんな国に行って試合をしていました。良いコンディションをつくるために気をつけたのが、できるだけ現地のものを食べること。海外なので当然雪の質も違いますし、時差があって大変。食事の文化も違います。そんな中で素早く現地の環境に自分の体をアジャストできるんじゃないかと思って。

引退してから気づいたことがあります。実は揚げ物、しかもジャガイモが好きだということがわかったんです。おいしいですよね。でも、競技をしている時は、良いコンディションを作るために、早くリカバリーできるような食事を心がけていました。自分が強くなるために何を優先的に食べるべきか、好きなものより「強くなる」を優先してきたように思います。引退してからは、そういったストイックに食事を選択する必要がなくなってきたので、普段の食事の中で、改めて大好きだなと気づく食べ物も多くて、食べることを思いっきり楽しんでいます。

「5分間には、1日がつまっています」元モーグル選手・伊藤みきさんの五感と5分間

【視覚】
モーグルという競技はコブを滑りながらエアーをきめるものです。一つひとつのコブを見ていてはうまく滑れない、ちょっと先のコブだったり、エアー台だったりを見ながら滑っています。調子がいい時は、どこを見るのかを意識せずに全体を見渡すことができました。近くを見ていると頭が落ちてしまうので、よくありません。上半身はしっかり前を向いて、下半身を動かしながら滑るのがモーグルです。

調子がいい時は自分の体が前にいって、スキー板が後からついてくる感覚になります。それはスピードが乗っている時で、これまでにない速さなので怖さを感じることがあります。この競技においてタイムは、唯一無二の数字で評価されるもの。私が思う優勝する選手というものは、このスピードを制した方でもあるので、他の選手からしても「おぉ!」となりますね。

【聴覚】
できるだけ自然の音を取り込みたいんですよね。トリノ・オリンピックの前にカナダ人コーチとやったトレーニングが、目を閉じて、「ワンエイティー」と言われたら180度回転する、「スリーシックスティー」と言われたら360度回るトレーニングをしました。これは普段、目に頼りすぎているので、自然の音を感じながら自分の体をコントロールするもの。風の音や鳥の鳴き声をキャッチして、自分の体の角度を確認するのです。このトレーニングと相性が良くて、自然の音をキャッチするようになりました。味覚と同じなのですが、聴覚もできるだけ現地の情報を感じていたいんです。自分が滑っていなくても他の選手の滑る音で、雪の質が判断できるんですね。

普段は、会場内は音楽が流れてショーのような雰囲気で競技をするのですが、一度、音響が壊れ、観客がいない状態でのワールドカップを経験したことがあります。でも、その時の私はどうしても勝ちたい気持ちが強くて、いわゆる“ゾーンの状態”に入っていました。

試合後に記者さんから「静かな会場で違和感あったと思いますが」と聞かれた時に、なんのことだかわからず、お客さんがたくさんいたと思って回答していました。それだけレースに集中していたので、音がないことも、観客がいないことも全く気付いていませんでした。本当にレースに集中するということは、こういうことなんだと、今でも印象的な出来事です。

【嗅覚】
雪の乾燥した匂いは冬が来たな、と楽しみになります。ですが、やはり色んな国の色んな宿舎で寝泊まりするので、日本のようなきれいなホテルばかりではありません。特に、ベッド周りの匂いは睡眠に影響するので、枕やマットなどは常に持参するようにしていました。

たまに寒すぎる場所だとスタート台にストーブを置いてくれるんですね。なので、今でもストーブの香りを嗅ぐと、現役時代を思い出すことがありますね。

「5分間には、1日がつまっています」元モーグル選手・伊藤みきさんの五感と5分間

【触覚】
私のトレーニングの方法は、冬に向けて、自分はどのくらいできるんだろう、と探ることが先でした。ほんの少し限界の先までトレーニングをしてみる。そこで、どのくらいの量なら、この質が保てる、というのが分かります。体が資本なので、けがをしてしまってつらい時もありました。ただ、勝ちたいなら、自分の限界を知らないといけないと考えて、とにかく色々な方法を試しました。体は思考よりも随分遅い回復しかできないことにいら立ちを覚えたりもしました。

競技で自分を知ること、この身体と理想の滑りに向かうことの楽しさを、そういう取り組みを、競技を通して教えてもらえた、と感じています。そして、そうやって自分の思う理想をずっと追わせてもらえた、周りの環境を与えてもらえたことが本当にありがたいです。

ただ、こう見えて体を動かすことは趣味ではないことが引退してわかりました。旦那さんはトレイルランニングを趣味としているのですが、一度もついていったことがありませんし、家で本を読んだり紅茶を飲んでゆっくりするのが好きなんです。旦那さんからは「インドア派」と言われています(笑)。それは昔からそうで、だからこそ無駄のないトレーニングがしたくて、色々と計算して効率的にトレーニングが組めたのかなと思います。

【最も印象的な5分間】

「5分間には、1日がつまっています」元モーグル選手・伊藤みきさんの五感と5分間

5分間は5人です。

これは、競技中のお話なんですが、1人の選手が滑り終えるのが大体30秒。そして、採点まで30秒。合計1分ですよね。5分間あれば5人分と考えます。

自分が5番目だったとしたら5分間の流れはこうです。1分経ったところで板をはきだし、自分のレースまでは、もう他の選手のことは見ません。緊張している時は、座ったり寝転がったりして落ち着かせます。

他の選手は体を動かすので、ちょっと珍しかったかもしれません。木の下でたそがれていたこともあります。そして、4分経ったらスタート。4分半で滑り終えて、採点が出る。これで5分ですよね。もうここで1日が終わりと言っても過言ではありません。5分間には1日分がつまっています。

あ、でも、今、5分間あれば……、もう少し寝ていたいですね(笑)。インドア派ですから。

「5分間には、1日がつまっています」元モーグル選手・伊藤みきさんの五感と5分間

(取材・文/上沼祐樹、写真/野呂美帆)

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