東京の台所

<195>煮物のような味噌汁から始まった彼女の恋

〈住人プロフィール〉
会社員(女性)・32歳・研究助手
賃貸マンション・1LDK・ 西武池袋線 小竹向原駅(練馬区)
入居7カ月・築年数7カ月・恋人(29歳・会社員)との2人暮らし

 鹿児島で生まれ育ち、地元の大学院で学んだ後、研究職を得て30歳で上京。その職場で恋人ができるまで、あわせて5年ぐらいは料理をしていなかったという。
「学生時代もひとり暮らしをしていたのですが、夜遅くまで学校で研究をしていて、疲れて帰っても誰もいないし、自分のために料理する気になれなかったんです。だから今日はセブンイレブン。飽きたらローソンみたいな感じ」

 それでも台所からは、鹿児島時代から集めているという箸置きが全て2セットで出てくる。鍋やポットもこだわって選んだことがわかるデザインだった。もともと台所仕事は嫌いでないらしい。
「いつか一緒にご飯を食べる人ができたときのために、なんとなくいつも2個買っちゃうんですよね。自分のためのご飯はどうでもよくなっちゃうんだけど、よく深夜にマフィンを焼いたりお菓子は作っていました。あれは気分転換なんでしょうかね」

 恋人は3歳下の同期の男性。社会人生活と関東暮らしが同時にスタートし、幾分慣れてきた頃、付き合うようになった。
 初めての料理は、不安でいっぱいだった。

「とにかく5年、料理から離れていたので、料理の勘が戻るか不安で。何を作ろうかなと迷って、はっと思い出したのが母の味噌(みそ)汁でした」

 女手一つで彼女を育てた母は、とにかく味噌汁が具だくさんだった。彼女はそれが普通だと思っていたが、小学校の時、気分が悪くなって駆け込んだ保健室での教員との会話で、そうではないと気づいた。
「今朝は何を食べましたか?」
「ご飯とお味噌汁と焼き魚です」
「お味噌汁の具は何?」
「白菜、かぼちゃ、さつまいも、豆腐にえのきに小松菜」
「そんなに具が入っているなんて、あなたのお母さんはすごいよ。それだけあなたのことを考えてくれているんだよ」

 仕事に子育てに、料理にそれほど時間をかけられない母の、ひと椀でたくさんの栄養素をという思いが伝わる味噌汁には必ず、鹿児島ならではのさつまいもが入っていた。
 彼氏への初めての料理にも入れたら、ひどく感動された。
「さつまいも入りは初めてだったみたいで、おいしいってすごく喜んでくれたのが今でも忘れられません」

 取材に同席していた彼に、その時のことを聞いた。山口出身で、自炊をしていたが、味噌汁は作ったことがなかったらしい。
「実家からレトルトの味噌汁を送られるので。彼女の味噌汁は、とくにこだわりがあるわけでもない素人の僕にも、きちんとカツオでだしをとっていることがわかった。もはや汁じゃないんです。煮物みたい。レトルトは塩っぱくて味気ないんだけど、彼女の味噌汁は具の甘さがわかる。本当においしかったです」

 互いの家に通い、7カ月前、ついにふたり暮らしを始めた。彼は言う。
「中間地点でたまたま練馬を選んだのですが、この街の緑にだいぶ救われています」
 前は工場地帯で、満員電車と緑のない街に疲弊していた。「家賃も物価も高い。自然も少ないし、東京で無理して暮らすのに疲れ始めて帰郷を考えていた」彼は、どうせ帰るなら最後に好きな仕事に挑戦してみようと、転職試験にトライ。採用された先で彼女と出会い、この町で暮らすようになった。
「駅から歩いてくるだけでも、人家の軒先や公園に緑が豊富でのどかで、東京じゃないみたいだなあって思う。練馬は知己がなかったのだけれど、とても住みやすくて気に入っています」

 彼女は料理を作るようになって、低かった血圧が正常になり、いつも眠くてしょうがなかったのもいつのまにか解消。年に3回は引いていた風邪も今はゼロだ。2人は口をそろえる。
「暮らし方を変えるだけで、東京ってこんなにも住みやすい街になるんですね」

 2人でシェアすることで経済的に楽になるメリットも大きいだろう。帰宅したら明かりが灯っている心強さもある。でもきっと、それだけではない。
「花を飾るとか、コーヒーの豆を挽(ひ)くとか、箸置きを添えるとか、今までの僕の生活になかった習慣。新しい文化が入ってくるのはとても心地いい」という彼に、彼女が続ける。
「私はひとり暮らしのときからお部屋に花を飾りたかったけど、実際は寝に帰るだけ。飾ったことが一度もなかった」

 長く暮らすと、感謝やリアクションや呼応は減り、当たり前になりがちだ。だが誰だって、自分のしたことに反応があれば嬉(うれ)しい。
 この2人は互いの小さな思いやりに、気付きと喜びがある。また、それを素直に表せる。
 具だくさんの味噌汁考案者のお母さんに、彼を紹介する日も近いといいなあと思っている。

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PROFILE

大平一枝

長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。
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