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溶けて、なくなっていく時間『抽斗(ひきだし)のなかの海』

溶けて、なくなっていく時間『抽斗(ひきだし)のなかの海』

撮影/馬場磨貴

のっけからやられた。冒頭の「信号旗K」を読んでいると、すーっと右目だけから涙がこぼれた。感極まったわけではない。心が動いたことはたしかだけれど、それは感動というよりも反射に近かったように思う。おいしそうなものを目の前にして、よだれが出るのと同じように。私は右目だけから、だらしなくよだれをこぼしながら、この本を早く味わい尽くしたいと思った。

今回ご紹介する『抽斗(ひきだし)のなかの海』は、芥川賞作家である朝吹真理子氏の初の随筆集だ。「信号旗K」は、朝吹さんがミュージアムショップで出会った、船舶で使われる信号旗のピンバッジについて書かれている。左半分が黄色、右半分が青色の信号旗「K」は、あらゆる言語の人たちがいる海洋上で「わたしはあなたと交信したい」というシグナルになるのだそうだ(なんて素敵なシグナルだろう……)。

近藤一弥氏の装丁も素晴らしい。信号旗「K」を模した黄色と青色で彩られた表紙が、「あなたにそっとさしおくりたい」とささやいているようで、つい手を伸ばしたくなる。手にとってページを開いたが最後、過去・現在・未来が混ざり合った時間なき時間に身を委ねざるをえなくなる。

たちのぼる、濃密な「今」

本書には、2010年から18年のあいだに書かれた55の随筆がおさめられている。書かれた順に並んでいるわけではない。近い過去に書かれたものも、遠い過去に書かれたものも順不同で入り乱れている。朝吹さんの文章のなかには、過去も未来もなく、あるのは常に「今」だけだ。ページを開き、ページを閉じるまでのあいだ、終始目の前には濃密な「今」がたちのぼっている。決して時間が流れることはない。

「川上もなく川下もなくひたすら流れてゆくだけの川」「永遠に流れつづける川」「あらゆることが同時に起こっている」「かつて書かれた作品であるという実感がない。いつまでも読んだときの感覚が過去のものとならず、小説のなかの『現在』はいつまでも『現在』のままある」

これら、本書に記された朝吹さんの言葉は、そっくりそのまま本書の説明になっているように思える。この本のなかに時間の経過はない。終わりもなければ始まりもない、途方もない「今」だけが、読者の五感を絡めとる。

つぶさにつづられる読書遍歴

本書は、非常に質の高い「ブックガイド」としても読むことができる。朝吹さんが高校生の頃からファンだったという大江健三郎と武満徹の話や(朝吹さんは大江健三郎が好きすぎて、はじめて会ったときに失神したらしい)、澁澤龍彦、金井美恵子に耽溺(たんでき)していた頃の話(朝吹さんは高校生の頃、澁澤龍彦のことを「たっちゃん」と呼んでいたそうだ)、古井由吉や後藤明生の小説との出会いなど(後藤明生なんて、ルーズソックスをはいた女子高生がもっとも読まなさそうな作家なのに……)、現在の朝吹さんの礎となっているだろう読書遍歴がつぶさにつづられている。

溶けて、なくなっていく時間『抽斗(ひきだし)のなかの海』

『抽斗のなかの海』朝吹真理子 著 中央公論新社 1,700円(税抜き)

朝吹ファンはもちろんのこと、文学好きな若い読者にとっても、きっと読み応えのある「ブックガイド」になるに違いない。本書を読み終わる頃には、この本も読んでみたい、あの本も読んでみたいと、芋づる式に本を買いあさることになるだろう。

本書は、「時間の溶けた、方角のない海」のような本だ。過去も未来もないし、どこへ向かうでもない。本来、読書は蓄積するものではなく、通過するものだから、読書の本質をついた本だと言えるかもしれない。最後に収録されている「りんご村物語」からもその片鱗(へんりん)がうかがえる。

母は、あらゆることをすぐに忘れる。家の近くに植わっている街路樹は秋口になると実をつける。母とその木の前を通ると「みて! こんなかわいい実をつけたの、はじめてみた」と言って、満面の笑みで、指をさす。こんな山手通り沿いの街路樹にも、木の実がなると感動し、ひとり涙ぐむ。それを毎年、繰り返している。去年も一昨年も同じことを言っていたよ、などとやぼなことはくちにしない。母には過去がない

本来、読書とはこうあるべきだろう。時間が溶けてなくなるように、読み終えたページが手の中で消えていく。いつ本を開いても、そこにあるのは常に「今」だけ。つまり、読書とは生きることそのものなのだ。過去も未来も必要ない、今、私はあなたと交信したい。そんなことを感じさせてくれる、賞味期限のない稀有(けう)な本だ。

(文・北田 博充)

【合わせて読みたい】湘南 蔦屋書店・八木寧子さんのブックレビュー『抽斗のなかの海』

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二子玉川 蔦屋家電のBOOKコンシェルジュ。出版取次会社に入社後、本・雑貨・カフェの複合書店を立ち上げ店長を務める。ひとり出版社「書肆汽水域」を立ち上げ、書店員として自ら売りたい本を、自らの手でつくっている。著書に『これからの本屋』(書肆汽水域)、共編著書に『まだまだ知らない 夢の本屋ガイド』(朝日出版社)がある。

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