東京の台所

<200>「それ、アウトでは?」で気づいた自分の本音と理想の家庭

〈住人プロフィール〉
会社員・32歳(女性)
賃貸マンション・ワンルーム・東京メトロ千代田線 北千住(足立区)
入居1年・築年数1年・ひとり暮らし

 25歳で10歳上の男性と結婚。彼も初婚だ。
 翌年、家を買おうという話になった。彼女は食べること飲むことが好きな家庭に育ち、自身も食関係の仕事に携わっている。狭い賃貸にはない、広くて新しい台所に憧れ、胸躍らせながらあれこれ物件を探した。
 まもなく、予算も間取りも理想通りの家が見つかり、ふたりでローンを組んで購入。石橋を叩いて渡る性格の彼は、詳細にローン返済計画をシミュレーションし、二人納得した上での新居のはずだった。

 ところが。
「たぶん、あれが具体的な亀裂の始まりですね」と、彼女は顔を曇らせる。

「この先、子どもが生まれたら、ローンを払えるかな」と彼が言い出した。
「大丈夫よー、二人で働いているからなんとかなるよー」と、元来楽観的な彼女は笑い飛ばすが、彼はどんどんふさぎ込んでゆく。
 家電を買い揃え、あとは入居するのみというタイミングである。

「どう言っても彼は不安を口にするばかりで、最後に家を買うなら子どもを諦めるか。子どもを生むなら家を諦めるかだなと言われて。なんでそういう発想になるのかと仰天しました」

 彼からとても大切に、深く愛されてきたのは間違いない。新婚の彼女は、「やっぱり売ろう」という彼の決断に最終的に従った。過ぎたことをくよくよ悩むより、未来に思いをはせたほうが楽しいと思ったからだ。

 今度は妊活を始めた。

 姑は再婚で、彼は幼い頃、母一人子一人で育っていた。近くに住む姑夫婦は、娘同様にかわいがってくれた。
「週末は必ず義母の家で過ごしました。義父は趣味で家庭菜園をしていて、私は食には興味もあるし、土や農作業も好きなので手伝いました。楽しかったですね」

 山陰地方出身の彼女は、東京にも父と母ができたようで嬉しかった。義父母に応援され、まずはひとりで週1~2回、産院に通った。
「妊活というほど本格的なものではなく、産院でタイミングを見てもらってチャレンジ、着床したか確認、の繰り返しをしていた感じです。仕事をしながらの通院が思ったより大変でしたが」

 しかし、家を買うときから子どもに関してどこか揺れていた彼にプレッシャーをかけるのは気が引け、タイミングをなかなか伝えられなかった。
 半年ほど通った頃、再び彼の不安病が始まった。

「やっぱり子どもはお金がかかるし、育てるのって大変じゃないかな」
 彼女はそのたびに「なんとかなるよー」と明るく打ち消した。
 するとある日、彼は真剣な顔で言った。
「ねえ、子どもが生まれたら、7歳くらいまでうちの親にみてもらわない?」

 それからも、義父母の不動産にまつわる理不尽な申し出や、好きで手伝っていた義父の家庭菜園を、夫に「もっと真剣に手伝ってほしい」と言われ、わだかまりが大きくなっていった。夫は土いじりを一切しない。

「私も働いているので、毎週末、義父母の家に通い、畑を手伝うのがしんどくなり始めて……。二人の時間もまったくないので、子どももつくるどころではなくて。でも、私が行くとお義母さんたちは本当に嬉しそうで、あんなに楽しくやっているのに水をさすのも悪いと思って、1年くらい何も言えずに悶々としていました」

 たまたまある週末の夕方、彼は実家に。自分はひとりリビングでコーヒーを飲みながらベランダの景色を眺めていた。

「このまま20年、30年、40年もやっていくんだな、これで終わりじゃないんだよな。でも、ふと義父母が亡くなればこの生活も変わるかなと思ったんです。パニックになりました。そんなことを考える自分が恐ろしくて」

 彼女はいつもの飲み仲間で、離婚経験のある女性の同僚に相談した。
「私、こういう恐ろしい気持ちになっちゃったんだけどどう思う?」
「きた。それ、アウトのやつ。私もそうだった。旦那さんやその親と同じお墓に入りたくないって思ってない?」
「うん」
「あなたのなかでけっこう気持ち、固まってるんじゃないかな」
 あの子にそんなに愛されていいわね、と義母に言われ凍りついたことは胸にしまっていたが、同僚には裸の本心が伝わっていたらしい。

 結婚生活は6年で終わった。彼に泣かれたが、本意は翻さなかった。
「私自身、結婚しなきゃ、子ども産まなきゃと強く思い込んでいました。愛情いっぱいに育ててくれた私の実家の両親に対して、そうできなかったことは申し訳ない気持ちでいっぱいです。でも、人生は結婚や子どもが全てじゃないとわかったので」

 新生活は、元の住まいから遠く離れた北千住の小さなマンションを選んだ。料理が好きなので、狭くてもコンロが二口。IHではなくガスのワンルームにこだわった。

「いくら自分で決めたことでも、寂しくなると思ったんです。だけど好きなものを食べて好きなお酒を飲んで、友と好きなだけ語り合って。この1年、1度も寂しいと思ったことがなくて自分でもびっくりしています」

 前の台所は隠れて泣いたり、一人で物思いに耽(ふけ)る避難所だった。いまの台所は「元気になれる私の居場所」と語る。

 遠方の両親は、おいしいものを食べに行くわと2~3カ月に1度の割合で、やたらと上京してくるようになった。
 そのたびに3人で食事に行き、飲んでは食べ、食べては飲み、遅くまでわいわい語り合う。すでに行きつけのレストランがあり、シェフとは家族ぐるみの付き合いだ。ちなみに全員酒豪で、家族でワインを3本空けることも多い。夫とその家族は下戸だった。
 結婚していたころ、両親の上京は6年間に1回だったというから、娘思っての旅なのだろう。

「あいつがどうせ一人だから誘ってやろう」と、会社の上司や同僚にも頻繁に飲みに誘われる。

「私がもっとがんばれたら、両親や同僚や友達に心配かけずにすんだのにってときどきすまなく思うけどしょうがないですね。気にかけてくれる人がたくさんいることに今は感謝しかないです」

 前夫に対して負の思い出だけではない。楽しい日々、愛された記憶もあふれるほどにある。ただ、生きるベクトルが違っただけ。食べるもの、希望を託す未来、信じる拠(よ)り所が違っただけだ。

 次に結婚するとしたらどんな相手がいいですかと問うた。満面の笑みで、
「お酒飲んで楽しく食べられる人!です。うちの両親みたいに」
 彼女も元夫も、誰も彼も、きっと幸福の雛形や基盤は、育った家庭で築かれることが多い。そこに正解も不正解もない。合うか合わないか。人生は長い。自分の気持ちに正直に生きるのが唯一の正解なんだろう。

>>台所のフォトギャラリーへ  ※写真をクリックすると、くわしくご覧いただけます。

    ◇

■大平一枝さんから
2013年1月、『&w』創刊とともに始まった本連載は、200回を迎えました。氏名も顔も出ない市井の人の台所という、少々風変わりなこの企画に、毎回たくさんのご感想やご支持をありがとうございます。
ウェブだからこそ何度も読み返し味わってもらえるよう、また俯瞰したときいまという時代のなにかが見えてくるよう、これからも、真摯に住み手の心の物語を伝えたいと思います。
ご愛読、心より御礼申し上げます。
大平一枝 拝

■「東京の台所」200回記念イベントを企画中です! 
詳細は近日公開! どうぞお楽しみに。

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    PROFILE

    大平一枝(写真も)

    長野県生まれ。失われつつあるが失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』『紙さまの話~紙とヒトをつなぐひそやかな物語』(誠文堂新光社)、 『日々の散歩で見つかる山もりのしあわせ』(交通新聞社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)ほか。最新刊は『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)。HP「暮らしの柄」。
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